japan-aidのブログ

透明人間2号です!

ダ・ヴィンチの罠 再構成

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         『再構成』のイメージ(パート1)kano.arkoak.com
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          『再構成』のイメージ(パート2)kano.arkoak.com
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          『再構成』のイメージ(パート3)kano.arkoak.com
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         『再構成』のイメージ(パート4)kano.arkoak.com
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            『再構成』の完成イメージ kano.arkoak.com 

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       生と死と復活のはざま kazuki1026.hatenablog.com 

     『アテナイの学堂」ラファエロ・サンティ画 ja.wikipedia.org


  世界雑学ノート「万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ」world-note.com   

   ★『ダ・ヴィンチの罠 虚構劇』からのつづきです!

toumei-ningen.hatenablog.com

 

 ステファノは、新約聖書『使徒行伝(使徒言行録)』に登場する初代教会の信徒で、貧しい人への配慮や十二使徒(十二弟子)たちを支えるために選ばれた7人の「執事」のうちのひとりでもありました。

 彼は、信仰と知恵に満ちた人物として描かれ、キリスト教における「最初の殉教者=聖ステファノ」として特別に記憶されているようです。

 ステファノは、公の場でイエスをキリスト(救世主)として証明するために、『旧約聖書』の歴史をたどりながら神への不従順を指摘する説教を語りました。

 その言葉はユダヤ教の宗教指導者たちを激しく怒らせ、サンヘドリン(最高法院)において裁判のような場面に立たされることになたのです。

 怒りに燃えた人々は、ステファノを町の外に引きずり出し、石打ちの刑で殺してしましました。これは当時のユダヤ社会で行われていた死刑方法のひつです。

26 De Diciembre, San Esteban: El Primer Mártir | Fundación CARF
  聖ステファノの殉教、フアン・デ・フアネス作、プラド美術館所蔵 fundacioncarf.org

 この処刑で注目して欲しいのは、決定に賛成したサウロ(のちの使徒パウロ)が、刑の執行者たちの着物の番していたということです。(画像左上にいる人物)

 その最期に際しステファノは、天が開き、神の栄光と、その右に立つイエスを見たと言い、さらに自分を殺す人たちのために赦しを祈りながら息を引き取ったと記録されています。

 ステファノの最期の祈りは、十字架上で自分を殺す者の赦しを願ったイエスの祈りと重ねて理解されるようですね

             

 「この罪を彼らに負わせないでください」という祈りは、暴力ではなく赦しで応える生き方の象徴として語られてるようでが、ここ『ダ・ヴィンチの罠』ではそうは捉えていません

 彼の殉教をきっかけに、エルサレムの教会には激しい迫害が起こり、信徒たちは各地に散らされましたが、その中でかえって福音が広がっていったと説明されます。

 要するに、そはこういうことなのです。

 ステファノの殉教の直後から、エルサレム教会には本格的な迫害が起こり、多くの信徒がユダヤとサマリア一帯に散らされたと『使徒行伝(使徒言行録)』は描きます。


      『使徒行伝』世界宣教のはじまり www.newlifeministries.jp

 これが、エルサレムに集中していた共同体が地方へと広がる決定的な転機となり、その結果として、福音は「エルサレムの外」に出て行き、ユダヤ人以外の地域や人々へと伝えられ、異邦人伝道への足掛かりとなていくのでした

 こうしてステファノの殉教は悲劇であると同時に、宣教の新しいステージを開いた出来事として理解されいくわけですね。

 ところで、

         
           パウロ(サウロ)の肖像

 ステファノを石打ちにしたその場には、後に使徒パウロとなるサウロが立ち会っており、彼はこの出来事を支持する立場にいたと記されていますよね。

 ステファノが自分を迫害する人々のために祈りながら死んでいったことは、後にサウロが復活のキリストと出会い回心していく過程結びつけて語られますが、そこには誤解多くの伝統的な解釈では、ステファノの赦しの祈りが、サウロの心に「とげ」のように残り、パウロとしての回心と宣教者としての歩みに深く影響したと考えられていますが、んでもないであることを申し添えておきと思います

 ステファノの殉教は、初代教会に「殉教とは何か」というひつの典型的なイメージを与えました。

  
          ステファノの殉教 www.lets-bible.com

 神への信頼、キリストへの証し、敵への赦しの祈りという三つが、後の殉教者理解の原型となり、多くの信徒が彼の姿を模範として受け止めていくわけです。

 同時に、殉教は単なる敗北ではなく、神が人の心を変え、教会を成長させる「種」のような出来事だという理解が育ちました。

 そこから、迫害と教会の成長を結びつける神学的な見方形成されていというわけすね。

 ステファノがそもそも「七人」の奉仕者として選ばれた背景には、教会内部の不満や不公平という問題がありました。

 この経緯は、初代教会が理想的な共同体でありながらも、人間的な対立や課題を抱えていたことを示し、同時にそれに対処するための新しい奉仕の役割や体制が整えられていく過程を示してるようでもあります

 その意味で、ステファノの殉教物語は、迫害による外側への広がりだけでなく、教会内部の成熟と整えられていくプロセスを描く物語としても読まれているのです。     

                   

 ステファノ殉教の歴史的な信頼性を考えるとき、次のように分けて考えると整理しやすいのかもしれません。

 殉教そのものの事実性と、『使徒行伝(使徒言行録)』が描く細部の歴史性という二つです。

 ① ステファノという人物と、石打ちによる殉教が本当にあったのかどうか?

 ② 裁判の場面における長い説教や、天が開けてキリストを見た描写などが、どこまで「そのままの出来事」であったのか?

 『使徒行伝(使徒言行録)』による記述は、エルサレムのユダヤ教当局とイエスの弟子たちとの緊張関係の中で、ある信徒が石打ちで殺されるという筋立てになっているので、当時の社会状況から見ても「不自然ではない」と多くの研究者は考えます。

 ユダヤ法に基づく石打ちは現実に行われており、宗教的冒涜と見なされた者が暴徒的、あるいは半公式的に殺されるというケースは十二分にあり得る話だからです。

 また、『使徒行伝(使徒言行録)』がそれほど古くない時期に書かれ、エルサレム教会の記憶がまだ生きているうちに編集されたと見なされていることからも「キリスト教の最初期に殉教した信徒ステファノがいた」という大枠は、初代教会の実際の記憶を反映しているとみる立場が主流です。              

             

 その一方で、裁判の場面における長い説教の全文や、天が開いて栄光のキリストを見たという描写は、史実の出来事がそのまま逐語的に録音再生されているというよりも、著者ルカの神学や『旧約聖書』の理解を強く反映した「再構成」と考えられます。

 ステファノの説教は、旧約の歴史をたどってイスラエルの不従順を指摘し、神殿批判とイエス証言へと至る典型的な構成であり、ルカ文書全体の神学とよく響き合っていまし

 殉教時の「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」「この罪を彼らに負わせないでください」という言葉は、福音書のイエスの最期の祈りを意識した形で配置されており、文学的・神学的表現の要素が強いと見られます。

 

 

ダ・ヴィンチの罠 虚構劇

      虚構の劇団「ザ・リアリティー・ショー」kan-geki.com 

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       生と死と復活のはざま kazuki1026.hatenablog.com 

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   ★『ダ・ヴィンチの罠 エラー』からのつづきです!

toumei-ningen.hatenablog.com

 

 前々回の『ダ・ヴィンチの罠 告解室』では、キリスト教に対する個人的な疑問点を、そして、前回の『ダ・ヴィンチの罠 エラー」では、「トリノの聖骸布」における真贋の行方に関する拙い推理と考察をぶつけてみましたが、今回は『虚構劇』と題して、以前に案内した「イエス・キリスト計画」のその後とパウロの正体について、もう少しだけ触れておくことで、結果オーライにしたいと考えています。

 それでは、早速にも「イエス・キリスト計画」のその後についての出来事を振り返ってみたいと思いますが、計画のスキーム自体に不案内の人や初めて読まれる方々は、計画の概要や別動隊である「十字架同胞団」の情報やデータなどについて事前にある程度、掌握しておくと理解が早いと思われますので、まずは『ダ・ヴィンチの罠 踊り子』の前後のページをご参照くださることをお勧めいたします!

toumei-ningen.hatenablog.com

 さて、知る人ぞ知る『新約聖書』に登場する人物の中に、悲劇的な死を遂げたステファノがいます。

 彼はイエスの昇天後に誕生した初代教会において十二使徒(十二弟子)たちの働きを助けるために選ばれた七人の執事のひとりでしたが、その熱心な宣教がユダヤ人たちの反感を買い、石打ちの刑に処せられ、キリスト教史上最初の殉教者となった人物です。

 もちろん、当時ユダヤ人は死刑執行権を持っていなかったので、これは非合法なリンチ殺人事件だったわけですが ・・・

  
         ステファノの殉教 www.lets-bible.com

 ここで驚かされるのは、彼の雄大な説教や弁舌もさることながらステファノが見せた最後の姿です。

 石を投げつけられるその中で、跪いたステファノは「主よ。この罪をかれらに負わせないでください」(使徒行伝7章60節)と祈ったというのです。

 この部分はイエスが十字架上で敵を赦した姿と重ねて理解されることが多い箇所ですが、実は裏があったのです!

 このステファノの処刑で注目して欲しいのは、この決定に賛成したサウロ(のちの使徒パウロ)が、刑の執行者たちの着物の番していたということです。

 彼がこの光景に接して、どのように思ったのかは聖書に記されていませんが、その心のうちに何も起こらなかったとは思えませんよね!

 おそらく生涯忘れることのできない刻印を心に残したに違いありません。それはイエスを信じた後、使徒としての働きの中でステファノの殉教に言及した記録があることからもわかります。

 サウロは、どれほど懸命に忘れようとつとめても、「ステファノの死の様子を忘れるわけにはいかなかった」おそらく「サウロの回心」の最初の動機や遠因あるいは伏線となった出来事だったのではなかったかと考えるのが、一般人の考え方だと想像されますが、『ダ・ヴィンチの罠』は違います。

    
     『サウロ(パウロ)の回心』ピエトロ・ダ・コルトーナ

 何となれば、

toumei-ningen.hatenablog.com

 『ダ・ヴィンチの罠 催眠術』において、① 使徒たちに「催眠術」をかけていた人物と、②「後催眠暗示」を実行する場合の合図についての質問を投げかけておいたわけですが、残念ながら、その件(催眠術の施術者および合図の方法)に関するコメントは現時点においても、いまだ、皆無の状況です。

 まあ、「種明かし」の段階で、その施術者はキリスト教における最初の殉教者であるステファノであったと暴露しているので、コメントがないのも当然と言えば当然のことなんですがねぇ ( ^ω^)・・・

 要するに、「裏があった」とは、こういうことなのです。

 紆余曲折に遭いながらも「イエス・キリスト計画」は順調に推移し、ナザレのイエスのキリスト化は着々と進行していました。

 真の首謀者がファリサイ派の中でも最もキリスト教徒(ユダヤ教ナザレ派)を迫害する張本人であるサウロだとは露も知らない新しい信徒たちは、ステファノの説教や爽やかな弁舌に心を奪われていたのでした。

 ここでパウロが企図した「イエス・キリスト計画」とそれを推進する別動隊である(仮称)「十字架同胞団」の主たるメンバーを再紹介しておくと、 

           ★「十字架同胞団」主要メンバー表

   総指揮兼監督:パウロ(旧名 サウロ)計画の設計および脚本・演出

   主演:ナザレのイエス   十字架上での死と復活劇の主演男優

   共演:イスカリオテのユダ 裏切り者としての助演男優賞的役柄

   助演:アリマタヤのヨセフ 計画の一部設計(イエスの墓を提供)

      百人隊長ロンギヌス 死の確認(槍でイエスの脇腹を刺す)

      マグダラのマリア  復活後の第一発見者(助演女優賞級)

   協力:錬金術的薬剤師2名および墓の見張り番の衛兵たち若干名

   その他:使徒ヨハネほか数名(ここにステファノやニコデモが含まれます)

キリストの傷痕、見方によっては…美術史家が指摘する「意味深」なウラ解釈とは?
        写真はイメージです(Photo:PIXTA) diamond.jp

 繰り返しになりますが「イエス・キリスト計画」や別動隊である「十字架同胞団」についての詳しい情報やデータなどは『ダ・ヴィンチの罠 踊り子』の前後のページをご参照ください!

toumei-ningen.hatenablog.com

 「十字架同胞団」の主要メンバー表の最後にあるように、ステファノは「同胞団」の一員で、もしもの場合の『善後策』として用意されていた後催眠暗示を密約に加わった使徒たちに施術していた催眠術師でした。

 つまり、計画の一部始終ではなくとも、かなりの部分を知る立場にあったわけで、サウロにとって、実に都合の悪い人物のひとりだったのです。

 その意味では「イエス・キリスト計画」の実態(実体)を知らない十二使徒(十二弟子)たちよりも始末に負えない厄介な人物(邪魔者)だったわけですね。

 そんな折に、ユダヤ人たちの反感を買い、サンヘドリンの裁判において石打ちの刑に処されることが決まったことは、サウロにとって「渡りに船」の出来事だったに相違ないのです。

 そして、「主よ。この罪をかれらに負わせないでください」(使徒行伝7章60節)とステファノが祈ったその裏にあったものとは、罪はかれらにあるのではなく、計画の秘密を知る者を消そうとするサウロの罪(邪心)を告白したいのは山々なれど、それが出来ずに苦しむステファノの心情が見え隠れしているように感じられてならないのです。

 はてさて、今回はステファノの話に終始してしまい、「イエス・キリスト計画」のその後の展開やパウロの正体に迫ることが叶いませんでしたが、彼については、もう少し触れておきたいので、次回に『再構成』するつもりでいます。

               

 さらに、次回以降において、『その後』あるいは『虚言癖』と題して「イエス・キリスト計画」のその後の展開についての投稿を予定でおりますので、今日のところはこのあたりで何卒ご勘弁ください!

 いずれにせよ、 こうして、巻き散らされた架空の物語はキリスト教の真実として、次から次へと醜悪なる副産物を生み出して行くわけです。

 そうした「イエス・キリスト計画」を歴史の中における虚構の物語であるというふうに推理し、考察したのが、我らがレオナルド・ダ・ヴィンチであり、彼がそのように考え、そのように理解したからこそ彼は自らの絵画や手稿の中に絶妙なる「罠」を仕組んだものと小生は推察したわけです。

 然は然りながら、あくまでもこの「イエス・キリスト計画」なるものは想像(仮説)の域を出ない範疇の戯言なのかもしれませんが ( ^ω^)・・・

    むむむ! 「想像(仮説)の域」を出ないのか  
       

 
    この男は、 まったく、何も、わかってませんな!?
証明できない以上は「仮説」なんじゃよ?   
         
      
ところで、ステファノって、馴染みがない名前よね! 

         
         確かに、あまり聞かん名前じゃのぅ!?
英語で言えば、スティーブンじゃが ・・・?  

 ええっ、      
         
      
    有名なところだと誰がいるのかしら!?     
         
     そうじゃのぅ、小説家のスティーブン・キングあたりかのぅ!?
         
  それと、映画俳優のスティーブン・セガールとか、映画監督のスピルバーグ!

   結構おるやん!
            
 
作曲家のフォスターの名前もスティーブンだしね!    う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

           「核の冬の証拠はない」 gigazine.net
   … to be continued !!

       「聖書は『沈黙』を続ける神の言葉なのか?」 www.jw.org   

      「イエス・キリスト計画」の行方 teatime365.hatenablog.com 
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        『時間との戦いPART-1』 kazuki1026.hatenablog.com

   「夜空の天の川を背景に岩の上に立つ人」(Getty Images) forbesjapan.com

      宇宙に存在するのは、地球人だけなのだろうか(Getty Images)forbesjapan.com 

     コンタクト (Credit- Kendall Hoopes from Pexels)sorae.info 

        「なんだかなぁ!」 gigazine.net & spaceshipearth.jp 
          
         『最後の晩餐』ヨハネ  『岩窟の聖母』マリア     
               
               マグダラのマリア  
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       『時間との戦いPART-2』 kazuki1026.hatenablog.com 
     

    
ダ・ヴィンチの推理は続きます。 
  


          『新約聖書』の虚構(作り話だったのか?) 


     「案外と多い名前なのかもね!?」 yuri-kurashi.hatenablog.com

 ステファノという名前は、日本語ではあまり馴染みがありませんが、英語で言えば、スティーブン、そう聞くとなんとなく知っているかも、と言うことで、どこかの誰かを思い出す人がいるかもしれませんね!?


       虚構の劇団「ザ・リアリティー・ショー」kan-geki.com 

ダ・ヴィンチの罠 エラー

フォームのエラーメッセージには、ネガティブな言葉を使わない ...
            「エラー(ERROR)」 f-tra.com  

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       生と死と復活のはざま kazuki1026.hatenablog.com 

     『アテナイの学堂」ラファエロ・サンティ画 ja.wikipedia.org


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   ★『ダ・ヴィンチの罠 告解室』からのつづきです!

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 以前に「トリノの聖骸布」は限りなく本物である方向に近づいてきている、とお伝えしましたが、 

 『ダ・ヴィンチの罠 亜麻布』において、「トリノの聖骸布」の背後にひそむ真実や科学は、実に驚嘆すべきものであるのに、ほとんどの人はまだそれが偽物だと思っている!というふうに書き記しました。

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 そして、その最大の理由は、「使用された炭素年代測定技術に欠陥があったからではなく、鑑定(サンプリング)用に採取された布地が、1532年のシャンベリの火災での裏あて(継当て)の補修部分の布だったことに起因しているとしましたが、

 「トリノの聖骸布」における放射性炭素年代測定プロトコルには、欠陥があったと言うべきいくつかの問題点が指摘できることを申し添えておかなくてはなりません。

 それと言うのも、『ダ・ヴィンチの罠 真贋力』での思わせぶりな終わり方は、まさにこの点を強調したかったからであって、「聖骸布」 は100%亜麻布で織られていたのに、よりによって、1532年の火災でほぼ破壊された後に縫い付けられたパッチ(継接ぎ)の部分をサンプリング用として採用したことの不手際に言い知れぬ不信感が募ったことに始まります。

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 1988年にこの部位が年代測定に使用されたわけですが、このサンプルはそれぞれ3つの個別の部分にカットされ、各部分は世界中の3つの異なる研究所に送られました。

 ここで驚くべき事実が判明するのですが、各断片はそれぞれに決して小さくはない範囲の異なる年代を測定していたのです。

 各サンプル布の片方の端は、ずっと古い日付を示し、もう一方の端は数十年後の日付を示していて、3つすべてを比較すると、サンプル全体では到底、均質とは言い難い結果が提示されたのでした。

 さらに、問題はそれだけではありません。

 聖骸布のまったく別の部分から切り取って、準備しておくべき対照用のサンプル片が何も用意されていなかったのです。

 少なくとも、有効な結果を得たいと期待している場合に、あらゆる種類の実験用の対照サンプルが必要であることは初歩の初歩でしょう!

 でも、不思議なことにそれはまったく準備されていなかったのです。

 ここに、なにか恣意的で作為的な何かが感じられてならないのですが ・・・

            

 しかも、この聖骸布の特定部分を切り出すことが決まる以前に、この部分はすでに長い期間にわたって操作されており、過去に再織された痕跡があることも認識されていたのです。

 しかしながら、いったいどういう経緯(いきさつ)でこの場所が選ばれたのか!?

 何らかの、あるいは、それなりの理由がきっと存在するはずなのですが ・・・

 公平を期すために言うと、これは検査官ではなく、バチカンが任命したプロジェクト全体の責任者である特別な管理官が選んだということですが、 ホントのところ、マジな話でそうなのでしょうか?

             

 そして、3つのサンプルのすべてが最終的にテストされたとき、この隅の部分の布(聖骸布の切れ端)における放射性炭素年代測定の結果は、AD1260年から1390年の間であることが示されました。

 結論から先に言えば、これらのサンプルは、聖骸布の主要部分の特徴ではなかった可能性が大なのに、 ・・・ です。

    ガビィ~ン!!            

 テストされた部分は、元の聖骸布に継ぎ合わされた綿のパッチに属していました。

 それは「焦げ跡」と同じく発生した火災による痕跡を残す部分であって、放射性炭素年代測定がナザレのイエスの時代よりも1000年以上も後の日付を示しているのはそうした理由によるものなのです。

 13世紀の布地と測定された箇所は、部分的に破壊された火災の後に継ぎ合わされ、再織された聖骸布の特定部分であって、この場所をテストしたとは、何たる不手際であったと言わざるを得ません!?

 しかも、興味深いことに、1532年のほかに1997年にも火災に遭遇したとされていて、そのどちらも奇跡的に(聖骸布は)救出されているわけです。

🔥 2度の大火災

 聖骸布は、少なくとも次の2回、大きな火災に遭遇したとされています。

年代 場所 状況
1532年 フランス・シャンベリー 聖堂の火災で銀製の箱が熱せられ、布の端に穴と焦げ跡が残る
1997年 イタリア・トリノ トリノ大聖堂付属礼拝堂の火災で再び焼失の危機に遭うが、消防士らにより救出され無事

 1532年の火災は、現在も布に見られる三角形の焼け跡や穴の原因とされます。

 1997年4月11日から12日にかけては、トリノの聖骸布礼拝堂で火災が発生し、建物は大きな被害を受けましたが、消防士が防弾ガラスケースを破壊して布を取り出し、聖骸布そのものは損傷を免れたと報告されています。

 以上、「トリノの聖骸布」の火災被害について、「AI」に質問した回答でした。

       う~ん! 妙に気になる不可解な火災事件なんだよね?

 聖骸布の最初の本格的な科学調査チームである「STURP(Shroud of Turin Research Project)」の創設メンバーのひとりで、科学主任を務めたレイモンド・N・ロジャースは、聖骸布の主要部分には染料は使用されていなかったが、炭素年代測定に使用された小さなテストサンプルには繊維に染料が含まれていたと結論付けます。

 「したがって、放射性炭素サンプルは元の布の一部ではなく、聖骸布の年齢を決定するには無効です」- レイ・ロジャース と、彼は指摘しています!

 ちなみに、         

 レイモンド・N・ロジャースは、アメリカの化学者で、ロスアラモス国立研究所で高エネルギー化学などを専門にしていた研究者です。

 彼は、年代測定に使用されたサンプルに誤りがあったとして、火災時に損傷した領域を選んだために、放射性炭素年代測定プロトコルがテスト時に正しく実行されなかったと説明しました。

 ここからは個人的な発言であり、余談の域を出ませんが、最近のWikipedia(ウィキペディア)の記事では、聖骸布を直接研究した実際のチームの見解と明らかに矛盾する非常に不誠実な調査結果と「事実」に依拠した研究の両方が混在して使用(掲載)されているようです。

 「AI」は「AI」で、折に触れて、嘘を吐くし、正直、いったい何が正解なのか?よくわからないのが現状ですよね!

 果たして、

 傑作とされる偽物の芸術作品だったのか?   

 我らが、レオナルド・ダ・ヴィンチは本当に無関係な存在なのか?

 少なくとも「トリノの聖骸布」は、イエスが完全に裸であったことを示しています。

 これは、中世を通して描かれたキリスト教の芸術作品とは一致しません。

 中世の絵画や彫刻は常に控えめで、血痕などはほとんど示されていませんが、「トリノの聖骸布」の写真画像を見ると、残酷さに容赦がなく、恐ろしい鞭打ちの痕、布全体に散らばった血痕、皮膚のアザや腫れ、体全体の深い刺し傷、手首と足に残る深い傷、頭の周りの刺し傷や裂傷の数々に病変の跡まで表現されています。

 特に、手のひらではなく手首に釘の穴が開けられていることは重要なファクターであり、真贋を見極めるうえでも注目に値します。

 中世の十字架刑の絵画では、ほとんどすべてが手首ではなく、手のひらに釘を打たれて吊るされているからです。

キリストの傷痕、見方によっては…美術史家が指摘する「意味深」なウラ解釈とは?

        写真はイメージです(Photo:PIXTA) diamond.jp

 しかし、歴史家や考古学者は、これがまさにイエスの時代にローマ人が犯罪者を処刑した方法だと言い張るつもりかもしれませんが ・・・

 ところで、

 これまでにさまざまな分野の専門家たちが何度も試みたわけですが、誰ひとりとして「トリノの聖骸布」の奇妙な特性を未だに再現できずにいるわけです。

 21世紀の現在のテクノロジーを駆使しても再現できない代物なんて、まったくどういうことなのでしょう?

 小生は陰謀論者ではありませんが、小生を含め、一部の陰謀論者などが「トリノの聖骸布」を作成したのは、レオナルド・ダ・ヴィンチだと主張しているようなのですが、聖骸布がダ・ヴィンチの時代より100年もまえに展示されていたという話が脈々と伝わっています。

 もちろんのことに、その聖骸布は「トリノの聖骸布」とは別物であると小生は考えていますが、確たる証拠が揃っているわけではありません。

 聖骸布の布を直接扱った研究者は、絵の具の色素や色素結合剤は見つからず、焦げ付きはなく、写真技術は使用されておらず、写真で使用される銀塩の痕跡も見つからなかったことを証明しました。

 赤い液体(血液)は布全体に染み込んでいるのに、画像は最上部の繊維の先端にしか見られないわけで、過去の美術史においても前例のない表現(描写)方法だと認めざるを得ません。

 おそらく「トリノの聖骸布」を偽造することは困難を通り越して不可能なことでしょうし、写真が発明される何百年も前に、20世紀のネガ画像技術を洗練されたカメラに使用することは、もっともっと不可能なことだと言えるでしょうね。 

 然は然りながら、もしも、あなたがこの聖骸布を本物であると信じるならば、あなたの信仰は小生よりも何倍も何倍も大きなものと言わざるを得ませんよね!

 この素晴らしい布は、これからも物議を醸し出すことでしょうが、一部の人々にとって、それは何の意味も持たない戯れ言にすぎないのでしょうね。

 なぜなら、科学万能な人々にとっては、証拠がない限り証明できないこと以外は何ひとつ証明できないわけですから ( ^ω^)・・・ ???

 しかしながら、ある人々にとって、それは永遠の証拠であって、「復活」に続く神からのもうひとつの奇跡であり、言葉にできない「不可能」なエラー(ERROR)という指標なのです。

 一方でそれは科学が永遠に躓(つまず)く石であり、目に見えない神の目に映るイメージそのものなのかもしれません!

 さて、「トリノの聖骸布」は、

 信仰の対象としても科学のテーマとしても、今も議論が続いている遺物です。

💡 いまの結論のざっくり整理

 多くの専門家が使う「現在の標準的な見解」は次のようなものです。

  • 1988年におこなわれた放射性炭素年代測定では、西暦1260〜1390年ごろの中世の布という結果が出ており、キリスト時代のものではないとする結論が維持されています。
  • 2026年の新しい繊維・テキスタイル分析でも、このときに年代測定に使われたサンプルが本体の布と同じ性質を持ち、特別な「修繕部分」ではないこと、また決定的な汚染も認められないことが報告され、1988年測定の妥当性を裏づける方向の結果になっています。
  • そのため「イエス本人の遺体を包んだ布である」と科学的に証明されたわけではなく、むしろ科学的には「中世の起源である可能性が高い」と見る研究者が主流です。

 一方で、信者や一部研究者のあいだには「やはり本物かもしれない」と考える立場も根強くあります。

🔬 科学的検証のポイント

 年代測定

  • 1988年、三つの研究所が綿密なクリーニング処理を行ったうえで放射性炭素年代測定を実施し、95パーセント以上の信頼度で「1260〜1390年」と報告しました。
  • その後、「サンプルが補修布だったのでは」「汚染があったのでは」といった反論が多く出ましたが、2026年の最新研究では、サンプル断片の繊維構造や汚染状態を再検討し、「本体と矛盾する証拠はなく、重大な汚染も確認されない」と結論づけています。

 画像・血痕・DNAなど

  • 画像がどのように形成されたかは、完全には解明されていませんが、絵の具などの典型的な絵画技法ではないという分析が複数あります。
  • 血痕とされる部分からは血液由来とみられる成分が検出されたとする研究もありますが、その解釈や汚染の可能性については議論が続いています。
  • 近年のメタゲノム解析やDNA解析では、布の表面にさまざまな生物由来のDNAが付着していることが示されていますが、「布の起源の決定的証拠にはならない」と複数の専門家が指摘しています。

🧠 信仰と学問のあいだ

  • カトリック教会自体も、「信仰の対象となりうる聖遺物」として扱いつつ、「イエスの埋葬布である」と公式に断定しているわけではありません。
  • 学術的には、「完全な偽物とも言い切れないが、現時点のデータでは中世起源の遺物とみなすのが妥当」という慎重なスタンスの総括研究も発表されています。

 要するに、「信仰的には本物と信じる自由があるが、科学的には本物とまでは言えず、中世のものと見るのが主流」というバランスだと考えると整理しやすいのかもしれません。

 以上、「トリノの聖骸布」について、「AI」に質問した回答の一部を列挙してみました。

toumei-ningen.hatenablog.com

 参考までに、3年ほど前の「聖骸布」に関する記事を添付しておきます!

   むむむ! 「信仰ゆえのジレンマ」ってことなのか  
       

 
    この男は、 まったく、何も、わかってませんな!?
信仰に「真偽」の証明など不要なんじゃよ?   
         
    
「本物」と信じ切ることで、赦しと救いを求めておるんじゃ! 

         
    ご都合主義の詭弁で、「聖遺物」とはよくぞ言ったものよね!?
何から何まで、すべてが見せかけじゃからのぅ!  

 ええっ、      
         
      
  ホンモノだと何か困ることでもあるのかしら!?     
         
  そうじゃのぅ、「真偽」を明確にしない方が、得策だど見ておるんじゃよ!?
         
   そうでもせんと罪の赦しと永遠の命の誤魔化しを隠しきれんからのぅ  

   ホンマでっか!
            
 
「復活」からしてあり得ない話だしね!?       う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

           「核の冬の証拠はない」 gigazine.net
   … to be continued !!

       「聖書は『沈黙』を続ける神の言葉なのか?」 www.jw.org   

      「イエス・キリスト計画」の行方 teatime365.hatenablog.com 
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        『時間との戦いPART-1』 kazuki1026.hatenablog.com

   「夜空の天の川を背景に岩の上に立つ人」(Getty Images) forbesjapan.com

      宇宙に存在するのは、地球人だけなのだろうか(Getty Images)forbesjapan.com 

     コンタクト (Credit- Kendall Hoopes from Pexels)sorae.info 

        「なんだかなぁ!」 gigazine.net & spaceshipearth.jp 
          
         『最後の晩餐』ヨハネ  『岩窟の聖母』マリア     
               
               マグダラのマリア  
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       『時間との戦いPART-2』 kazuki1026.hatenablog.com 
     

    
ダ・ヴィンチの推理は続きます。 
  


          『新約聖書』の虚構(作り話だったのか?) 


     「ホントは、どうなんでしょう?」 yuri-kurashi.hatenablog.com

ダ・ヴィンチの罠 告解室

 告解/ゆるしの秘跡のやり方・意味・手順|コレを読めばすぐ告解 ...
  「告解室」(懺悔部屋)x.com    「赦しの秘跡」(告解室) witam-pl.com

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       生と死と復活のはざま kazuki1026.hatenablog.com     

     『アテナイの学堂」ラファエロ・サンティ画 ja.wikipedia.org


  世界雑学ノート「万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ」world-note.com   

   ★『ダ・ヴィンチの罠 偽情報』からのつづきです!

toumei-ningen.hatenablog.com

 

 カトリック教会での「告解」は、洗礼を受けた信者が、自分の罪を司祭に打ち明けて、神のゆるしと和解を受けるための儀式で、現在の公的な名称は「ゆるしの秘跡」「和解の秘跡」とも呼ばれていますが、小生には、この行為が繰り返し何度も行われることがどうしても理解できないのです。

 洗礼を受けた後に行われる儀礼的なものなら、いざ知らず敬虔な信徒に至っては毎日のように「告解室」に向かう強者(つわもの)もいるとか ( ^ω^)・・・

 日本語の日常会話で言うところの「懺悔(ざんげ)」とは違い、「告解」はカトリックの専門用語で、多くの場合は教会で司祭に対して密かに繰り返し行われるわけです。

 細かな作法は教会によって少しずつ異なるのですが、おおまかには次のような流れのようですね。

  ① まず静かに祈り、自分の行いを振り返る。   

  • ② 司祭の前で、自分が犯した罪を包み隠さずに話す。
  • ③ 司祭から助言や励ましを受ける。
  • ④ 司祭から「ゆるし」の言葉が与えられる。
  • ⑤ その後、与えられた償いの行いや祈りをする。

 この一連のプロセスは、単に「悪い行状をすべて報告し、清算してゼロに戻す」というよりも、自分自身を見つめ直し、生き方を少しずつ変えていくための時間という意味合いが強いと説明されますが、「ホントですか?」小生には、到底のことに信じられません。

  赤信号みんなで渡れば怖くない」の人気タグ記事一覧|note ...

 ご都合主義の権化というか、「告解」すれば、事足りて「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とばかりに告白しまくっているようにしか感じられません。

        昭和時代には通用した標語?🤔 『赤信号みんなで渡れば怖くない ...
   「赤信号、みんなで渡れば怖くない」www.facebook.com

 この「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉を文字通りに解釈すれば「信号無視も大勢でやれば怖くない」という意味になりますが、実際には次のような集団心理を指していると言われています。

 「本当は良くないことだと分かっていても、まわりのみんなもやっているならと安心して実行してしまう」すなわち、みんなでやれば、ひとりひとりの罪悪感や責任感が薄れるという集団心理を「ことわざ」風に表現しているわけで、つまるところが「多数派に紛れて悪いこともやってしまう心理」を皮肉っぽく表現した言葉ですよね。

見出し画像
         「赤信号、みんなで渡れば怖くない」note.com

 カトリックでは、司祭は告解で聞いた内容を絶対に漏らしてはならないという厳格な守秘義務を負いますが、これは教会法でも明確に定められた「絶対秘匿」で、破ることは重大な違反とされているようです。

 しかし一方で、近年においては児童虐待や殺人などの深刻な犯罪が告解で語られた場合に、司祭が守秘義務を破ってでも通報すべきかどうかという社会的議論も起きています。

 これは国や地域によって法制度や考え方が分かれており、「告解の性格」と「被害者の保護」や法的義務をどう両立させるか、現在進行形で模索されているテーマですよね。

        
          「告解室」(懺悔部屋)x.com

 現代的な論考では、告解を「宗教儀礼」にとどまらず、人が自分の過ちを言葉にして他者に受け止められることで、自己理解を深めたり、人間関係を修復したりするためのひとつの仕組みとして捉える見方も紹介されているようですが、カトリックの告解とプロテスタントの懺悔では、同じ「罪を認める行為」でも、その仕組みと考え方には相当な開きがあり、かなり違っているようですね!

 カトリックでは、「洗礼後に犯した罪を司祭に打ち明け、神の赦しを受けるための秘跡」として制度化されており、司祭が正式に赦しを宣言する儀式になっています。

 ところが、プロテスタントでは「罪の告白」それ自体はとても重視されますが、司祭に相当する人に対する「儀式としての告解」は行わず、「神に直接悔い改めること」が中心になります。

 いずれにしても、不可解であることに変わりありません。イエスが贖った罪は、原罪をはじめとする「すべての罪」ではなかったのですか!?

 疑心暗鬼になったしまったので、AIに訊いてみることにしました。

 

          【AI による概要】
        キリスト、十字架、贖いの関係について:分かりやすく解説!
 イエス・キリストは十字架の死と復活を通して、全人類の過去・現在・未来における「すべての罪」を贖いました。これには、偶像崇拝や嘘、貪欲などの具体的な罪に加え、神から離れて生きようとする根本的な自己中心性や、罪を犯さずにはいられない人間の状態そのものが含まれます。 
 聖書によれば、罪の代価は「死」であり、何の罪もないイエスが身代わりとなってその罰(神から見捨てられる痛み)を全て背負いました。
 この完全な犠牲により、キリストを信じる者はすべての罪を赦され、神との和解と永遠の命を得る道が開かれています。

 カトリックにせよ、プロテスタントにせよ、日本語ではどちらも「神父さん」であり、「牧師さん」であるわけですが、告解と懺悔=「悔い改め」「罪の告白」との関係ではその役割に大きな違いがあります。

 カトリックの司祭は「告解を聴く人」であり、「赦しの秘跡」を執り行う当事者です。信徒は司祭の前で罪を語り、司祭から赦しが宣言されます。

 プロテスタントの牧師は「信徒の代表、説教者」であり、「告解を聴いて赦す人」ではありません。

 信徒が牧師に相談したり、罪を打ち明けることはありますが、それはカウンセリングや相談であって、「秘跡としての告解」には位置づけられません。

 日本語だと、カトリックの告解もプロテスタントの悔い改めも、まとめて「懺悔」と呼ばれてしまうことが多いようですが、カトリック信者は、本来の用語としては「懺悔」より「告解」「赦しの秘跡」と言います。

 プロテスタントは「悔い改め」「罪の告白」と言うことが多く、「懺悔」は説明用として使用することが多いようです。

 そのため、TVドラマなどで「懺悔室」と呼んでいても、部屋のつくりや神父のいる感じなどからも「こりゃあ、カトリックの告解だな」とわかることがありますよね!

  •        
           「赦しの秘跡」(告解室) witam-pl.com

 インターネットやSNSでの「告白文化」との対比で言えば、「誰に」「どのくらいの責任をもって」「どこまで打ち明けるのか」という問題も含め、現代的なテーマとしてかなり研究されているようです。

 ところで、日本語には「懺悔」「告白」「悔い改め」「悔悛」など「告解」に似た言葉が数多くありますよね。

 大抵の場合には「懺悔」のひとことで事足りてしまいそうですが、宗教制度や法律の一般的な知識として、「告解」において殺人を告白されたらどうするのでしょうか?

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      生と死と復活の告解(懺悔) kazuki1026.hatenablog.com

 カトリック教会での「告解」は、信者が司祭に罪を打ち明け、神のゆるしを願う秘跡として、正式にカテキズム(教理問答)に位置づけられています。

 司祭はそこで聞いた内容について、絶対的な守秘義務を負っており、故意に漏らせば厳しい処分を受けるとされています。

 特にキリスト教(カトリックなど)の「告解の秘匿」では、罪の内容が殺人であっても「外に漏らしてはならない」という原則が非常に強く守られています。

 そのため、宗教内部だけを見れば、「たとえ殺人の告白であっても守秘せよ」という教義規則が中核にあります。

 司祭は、告解で知った内容を一切外部に出せないという強い義務を負い、例外は原則認めないという立場を取る教会が多いようです。

 教会法では、告解の秘密を破った司祭は自動的に破門などの重い処罰対象になるとされ、たとえ、それが殺人の告白であっても例外にしないという立場が伝統的に取られているようです。

 各国の世俗法は「殺人の告発義務」と「宗教上の守秘」をどう扱うかで悩んでおり、児童虐待などをきっかけに「告解内容も通報義務の対象にすべきか」という議論が続いています。

 ただ、カトリック教会そのものは「告解の秘密は絶対」と教えており、司祭は告解の場を離れても、その内容を証言したり警察に話したりしてはならないという立場です。

 したがって「告解で殺人を告白されたら」というのは、典型的には宗教者が告白を受けた場合をイメージしていると思いますが、一般論としては次の二つを分けて考える必要があります。

  • ① 宗教内部のルール
  • ② 各国の法律や裁判の運用

 この二つは一致しないことが多く、国や宗派によってかなり違います。 

 司祭自身が警察に通報することはできませんが、次のような方向性はあり得るとされています。

  • ① 告白した本人に自首を強く勧める。
  • ② 被害者や社会への償いをするよう促す。
  • ③ 告解で聞いたことを直接の根拠にせず、一般論として説教や助言を行う。

 ただし、具体的な動き方や、どこまでを「告解の秘密」とみなすかは、国や教区、個々のケースによっても異なるため、最終的には専門家に確認する必要がるのかもしれませんね。

 ちなみに、

 国家の法律は宗教とは別に「証言義務」や「通報義務」を定めています。

 その中で、聖職者と信徒の会話に特別な秘密特権を認めるのかどうかが常に問題になります。

 特に近年は、児童虐待などの問題をきっかけに、「告解で知った内容も含めて通報義務を課すかどうか」を巡って、各国で議論や法改正が続いています。

 日本では、いわゆる「告解の秘匿」を正面から規定した特別の法律はなく、宗教者と信者の会話に対して「一律の秘密特権」を明文で認める規定もありません。

 一方で、刑法上は、他人の犯罪を通報しなかったこと自体を原則として処罰する一般規定はありません。

 代わりに、証拠隠滅や犯人隠避など、積極的に手助けした場合には処罰される形になっています。

 そのため、簡略化すると、次のような一般的イメージになります。

  • ① 単に「聞いただけ」で、特に行動していない段階では、直ちに犯罪になるとは限らない。
  • ② しかし、真犯人を逃がすために虚偽の供述をしたり、証拠を隠したりすると、証拠隠滅罪や犯人隠避罪などに問われる可能性がある。

 実際にどう評価されるかは、どの国のどの時点の法律か、どこまで積極的に「逃亡を手助けしたか」など事案の細部次第でいかようにでも変わってくるようです。

 この辺りのことは「宗教内部の倫理」と「国家の法秩序」がぶつかる典型例として、世界的にもずっと議論が続いている特殊な分野だと言えるでしょう。

 ところで、

 カトリック教会の規定としては「少なくとも年に一度は告解するように」という勧めがあり、これが最低ラインの目安になっています。

 研究データでは、日本のあるカトリック信者グループで「告解の平均回数が年6.90回」と報告されており、およそ「ほぼ毎月」告解している計算になります。

 一方で、別の資料では、日本では神父の数が少ないことなどから、実際には「クリスマス前とイースター前の年2回」を中心に告解を受けている信者も多いとされています。

 このため、

 ★ 最低限の目安は「年1回」

 ★ 実務的に多いのは「年2回程度」

 ★ 信心深く実践しているグループでは「月1回前後(年7回前後)」

 という幅があり、「クリスチャン全体での一律の平均」という数字は出しにくい状況にあるようです。

 告解を秘跡として正式に行うのは主にカトリックと正教会です。

 多くのプロテスタント教会では、神への直接の悔い改めを重視し、カトリック型の「告解室でのゆるしの秘跡」は通常行われません。

 そのため、「クリスチャン全体の平均回数」というより「カトリック信者の中での告解頻度」と理解した方が実態に近いようですね。

 以上、AIによる回答を中心に個人的な意見や感想を交えて構成してみました。

 総じて言えることは、やはり、日本人からすると奇妙であり、不可解にして奇天烈な教義体系であると断ぜざるを得ません。

 そもそも「善行と救いは別物で、ただ信じることのみに意味がある」とするキリスト教(パウロ教)に、レオナルド・ダ・ヴィンチが、異議(罠)を差し挟み(仕込み)たくなる気持ちが痛いほどにわかります。

 然は然りながら、世界最大の信者数を誇るキリスト教(パウロ教)の教義にそれほどの落ち度があるとも思われないので、「善行と救いは別物で、ただ信じることのみに意味がある」とするテーマでAIに質問をぶつけてみました。 

💡 救いと善行の位置づけ

 多くのキリスト教の教派では、救いは「神の恵みを、キリストを信じる信仰によって受け取ること」と説明されます。人間の努力や善行の「点数」で救いが買えるわけではない、という理解です。

 特に宗教改革以降の流れでは「人は律法の行いではなく、キリストを信じる信仰によって神の前に義とされる」という考えが強調されてきました。

✨ 善行には意味がないのか

 一方で、「信仰のみだから善行は不要で意味がない」という理解は、多くの教会では誤解だと説明されます。

 信仰によって救われた人が、神への感謝や隣人への愛として自然に行うのが善行だ、と考える立場が一般的です。

 善行は「救いを得るための条件」ではなく「救われた者の実り」だ、というイメージに近いです。

🔍 「ただ信じること」の中身

 「ただ信じる」と言うと、頭の中で「そう思う」と決めるだけのようにも聞こえますが、多くの教会はそれを「神への信頼と、そこから生き方が方向転換していくこと」だと説明します。

 なので、
 「善行と救いはまったく無関係」ではなく、「救いの理由は善行ではなく信仰だが、本物の信仰は善行を生み出す」という整理がよくされます。

 以上がその回答ですが、果たして、実際はどうなのでしょう!?

   むむむ! 「本物の信仰は善行を生み出す」わけか  
       

 
    この男は、 まったく、何も、わかってませんな!?
懺悔を告解と言うことがそもそも欺瞞よね?   
         
     
「告解」と言い募ることで、自己弁護しとるんじゃよ! 

         
    ご都合主義の詭弁で、「告解」とはよくぞ言ったものよね!?
そうじゃのぅ、何から何まで見せかけじゃよ!  

 ええっ、      
         
      
カテキズム(教理問答)の存在も、しかりってことなの!     
         
  そうじゃ、問答形式の信仰教育用のテキストで、よく見かけるやつじゃよ!?
         
   そうでもせんと罪の赦しと永遠の命の誤魔化しを隠しきれんからのぅ  

   ホンマでっか!
            
 
「復活」からして虚構の極みだしね!?        う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

           「核の冬の証拠はない」 gigazine.net
   … to be continued !!

       「聖書は『沈黙』を続ける神の言葉なのか?」 www.jw.org   

      「イエス・キリスト計画」の行方 teatime365.hatenablog.com 
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   「夜空の天の川を背景に岩の上に立つ人」(Getty Images) forbesjapan.com

      宇宙に存在するのは、地球人だけなのだろうか(Getty Images)forbesjapan.com 

     コンタクト (Credit- Kendall Hoopes from Pexels)sorae.info 

        「なんだかなぁ!」 gigazine.net & spaceshipearth.jp 
          
         『最後の晩餐』ヨハネ  『岩窟の聖母』マリア     
               
               マグダラのマリア  
f:id:kazuki1026:20260122143244p:image
       『時間との戦いPART-2』 kazuki1026.hatenablog.com 
     

    
ダ・ヴィンチの推理は続きます。 
  

巧妙化するフェイク情報のリスクをLLM×Agentic AIで自動分析 偽 ...
         「AI技術の氾濫」イメージ  jpn.nec.com 

        『新約聖書』の虚構(偽りの作り話だったのか?) 

 ここで、さらに、付け加えるとすれば、

💡 どういう立場の言葉なのか

 いまの「善行と救いは別物で、ただ信じることのみに意味がある」という考え方は、代表的には次のような立場に近いと思われます。

 ★ キリスト教の一部の立場
 「人は行いによらず、キリストの救いを信じる信仰によって義とされる」という、いわゆる「信仰義認」「信仰のみ」という考えがあります。

 ★ 浄土真宗の立場に近いニュアンス
 「自分の善行や修行ではなく、阿弥陀仏の本願を信じてまかせる他力によって救われる」と説かれます。救いの要は、善行の量ではなく「本願の救いを疑いなく信じる信心」にあるとされます。

 どちらも「人間の側の善行だけでは救いには届かない。救いは根本的には“信じて委ねること”にかかっている」という点で共通しています。

🧠 善行との関係づけ

 ただ、多くの教えでは「善行は意味がない」とまでは言い切らず、次のように整理することが多いです。

  ★ 救いの条件ではないが、救いを受けた結果として生まれてくるもの、救いが「信じてまかせること」によるとしながらも、その救いに出会った人の生き方として、自然に善行や他者への思いやりが芽生えると説かれます。

 つまり、「善行と救いは別物」というのは「善行が“救いを買うためのポイント”ではない」という意味で語られることが多く、「善行は一切不要・全く無意味」という主張とは少しニュアンスが違うことが多いようですね。


  「ホントのところは、どうなんでしょう?」 yuri-kurashi.hatenablog.com 

ダ・ヴィンチの罠 偽情報

偽情報はかつてないほど複雑化しており、メディアと情報のリテラシー教育が不可欠となっています。
   「偽情報」のイメージ:Unsplash/Hartano Creatives 画像元 jp.weforum.org  

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     『アテナイの学堂」ラファエロ・サンティ画 ja.wikipedia.org


  世界雑学ノート「万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ」world-note.com   

   ★『ダ・ヴィンチの罠 片務性』からのつづきです!

toumei-ningen.hatenablog.com

 

 『偽情報』(ディスインフォメーションは、近年、生成AIなどのテクノロジーによって増幅され、かつてないほどに複雑で危険な「罠」と化しており、今日的な大問題として喫緊なる対応が求められています。

 そこで、

 あらゆる世代やそれぞれのセクターなどにおいて、メディアと情報に関する十分な知識を効果的に取り入れることが、情報リテラシーだけでなく、社会全体の情報レジリエンスを高めるために不可欠なのですが、現代ほどではないにしろ、かつて『偽情報』がひとりの男の書簡によって、信仰共同体のなかに流布(共有)され、次第に侵食されていったことをご存じでしょうか!?

 小生が、つらつら考えるに ・・・

 なにゆえ未来の我々に対して、かくも不可解なる「罠」の数々をレオナルド・ダ・ヴィンチが提供しているのか、と言えば、ひとえに『聖書』それも『新約聖書』に対する不信感からだと思われます。

 最近、巷では「エゼキエル戦争」の話題で、その場が盛り上がったりすることが頻繁に見受けられるようですが、エゼキエルは『旧約聖書』に登場するユダヤ人の祭司であり預言者です。

 時代はバビロン捕囚の時期(ユダの民と共にバビロンに連行された人)で、神から幻を与えられ、多くの預言をおこなった人物であり、『旧約聖書』の大預言書のひとつとされる「エゼキエル書」は彼が見た幻の数々とメッセージをまとめた書物とされています。

 『旧約聖書』の「預言書」について、AIに尋ねてみたので一通り紹介しておきます。

 📘 預言書とは何か

 旧約聖書の中で、預言者と呼ばれる人たちのメッセージをまとめた書物のことを指します。
 神からの言葉を民に伝える「告知」としての性格が強く、当時の社会批判や将来への約束、救いに関する言葉が多く含まれます。

 一般的に「預言書」と呼ばれるのは、次の書物です。

 大預言書(4書)

区分 書名 主な内容の方向性
大預言書 イザヤ書 裁きと救い、メシア預言
大預言書 エレミヤ書 エルサレム滅亡前後の預言
大預言書 エゼキエル書 バビロン捕囚下での幻と回復
大預言書 ダニエル書 物語と黙示的な幻

 「大」は内容の分量が多いことを示していて、重要度の上下ではありません。

 十二小預言書(12書)

区分 書名 一言の特色
小預言書 ホセア書 神の愛と不信仰な民
小預言書 ヨエル書 主の日と悔い改め
小預言書 アモス書 社会的正義への警告
小預言書 オバデヤ書 エドムへの裁き
小預言書 ヨナ書 ニネベと神のあわれみ
小預言書 ミカ書 裁きと平和の約束
小預言書 ナホム書 ニネベ滅亡の宣告
小預言書 ハバクク書 悪と信仰の問いかけ
小預言書 ゼパニヤ書 主の日のさばき
小預言書 ハガイ書 神殿再建への励まし
小預言書 ゼカリヤ書 復興と将来の希望
小預言書 マラキ書 契約と礼拝のよみがえり

 これら十二書をまとめて「十二小預言書」と呼び、一つのまとまりとして扱う伝統もあります。

 🏛 ユダヤ教での「預言書」

 ユダヤ教のヘブライ語聖書では、旧約を「律法」「預言書」「諸書」の三つに分けます。
 このときの「預言書」には、ヨシュア記、士師記、サムエル記上下、列王記上下などの歴史書も「前預言書」として含まれます。

 🔍 読むときのポイント

 預言書は「未来占い」ではなく、神との契約を破った民への警告と、悔い改める人への回復と希望の宣言がセットで語られます。
 多くの箇所で「メシア(救い主)」に関する預言が含まれていると理解され、新約聖書ではそれがイエスに結びつけて読まれます。

 以上、AIによる概略的な内容についてのみ掲載いたしました。

 多くがメシア預言だと理解されているようですが、 

 この『旧約聖書』の預言を実に上手く利用してイエスをメシア(救世主)から神にまで祀り上げたのが、稀代のペテン師パウロ(サウロ)だったのです。

 彼は、そのためのプラン(スキーム)として「イエス・キリスト計画」を立案し、その実行部隊として要請・配備された集団が(仮称)「十字架同胞団」という組織だったのです。

 ここで、「プラン」と「スキーム」の違いについて少しだけ言及すれば、プランは「実行内容やアイデアをまとめた計画」であり、スキームは「より具体的な流れや枠組みといった計画をスムーズに推し進めるための仕組み」を指します。

 誰が何をどう進めるのか、といった実際に実行する場合における手順や資金の調達、組織の運営方法などの体制までを含めた総合的かつ詳細的なニュアンスが「スキーム」ということになるのでしょうか?

 それではこの辺で「偽情報」に話を戻すことにしましょう。

 「偽情報」とは、個人、社会、組織、国家に危害を加える目的で、発信者が意図的かつ意識的に作成・拡散する虚偽の情報ですが、勘違いや誤解から拡散されてしまう「誤情報(ミスインフォメーション)」とは異なり、悪意や明確なる意図がある点がなんと言っても特徴であり、厄介で始末に困るわけです。

 「偽情報」の中には『四福音書』や『使徒言行録』(使徒行伝)など『新約聖書』のほとんどがその対象となるわけですが、厄介で始末に困るのは、かなりの部分が事実に即していて、その中の主要な一部分だけが偽の情報だという点です。

 その典型例が『パウロ書簡』13通ですので、今回はこちらを取り上げてみたいと思います。

 ★ パウロ書簡は、その内容や宛先によって以下のように分類されます。

 四大書簡(主要書簡)
 パウロの神学の中心となる最も重要かつ長い手紙です。 

  • ローマの信徒への手紙
  • コリントの信徒への手紙一
  • コリントの信徒への手紙二
  • ガラテヤの信徒への手紙
 獄中書簡
 パウロが投獄されていた際に執筆したとされる4つの書簡です。
  • エフェソの信徒への手紙
  • フィリピの信徒への手紙
  • コロサイの信徒への手紙
  • フィレモンへの手紙
 牧会書簡
 教会の指導者であるテモテとテトスに宛てて、教会の運営や指導者の資質について教えた手紙です。
  • テモテへの手紙一
  • テモテへの手紙二
  • テトスへの手紙
 初期書簡
 パウロが初期の伝道時代に書いた手紙です。
  • テサロニケの信徒への手紙一
  • テサロニケの信徒への手紙二

 これらがパウロによって書かれたとされる「偽情報」が散りばめられた13通の手紙からなる「パウロ書簡」ですが、学術的な研究においては、パウロ自身が直接書いたとされる「真正パウロ書簡」7通と、パウロの死後に弟子たちによって彼の思想を継承して書かれたとされる「疑似パウロ書簡」(第二パウロ書簡6通)に分けられることがあります。

 これらの手紙は、パウロ自身が宣教によって設立した各地の教会(コリント、エフェソなど)のほかに協力者宛てにも書かれていますが、当時の教会が抱えていた諸々の問題の解決策や異教徒社会での生活におけるアドバイスなどが記されているようです。

 そして、すべての書簡に共通する中心的なテーマは「イエス・キリストの十字架と復活による人間の救い(信仰義認)」であって、初期キリスト教の神学の基礎が構築された文書として極めて高い歴史的価値を持っています。

 然は然りながら、

 「偽情報」の核となる真の出来事は、十字架でのイエスの死とその後に起こった「復活」という大イベントであって、そこにパウロが企画した「イエス・キリスト計画」と、それを推進する別動隊としての(仮称)「十字架同胞団」の活躍が認められるわけなのです。

 「イエス・キリスト計画」や「十字架同胞団」についての詳しい情報データなどは『ダ・ヴィンチの罠 踊り子』の前後のページを参照してみてください!

toumei-ningen.hatenablog.com

 こうして巻き散らかされた嘘のストーリーは、この「イエス・キリスト計画」の実行から始まった「虚構劇」の副産物であり、それらを架空の物語であると推理したのが、我らがレオナルド・ダ・ヴィンチだったのでした。

 彼がそのように考察し、そのように理解したからこそ、自らの絵画や手稿の中に絶妙なる「罠」を仕組んだものと小生は推察したわけで、あくまでも、これは想像(仮説)の域をでないものです。

 そうは言っても、ひょっとすると、これは立派な『偽情報』の範疇におさまる内容を含んだものなのかもしれません。

 次回では、クリスチャンと呼ばれる人々が度々おこなう「告解」というなんとも不思議で欺瞞に満ちた行為について、考察してみようかとも考えていますが、

 果たして、どうなるものか?

 それもまた保証の限りではありませんが ( ^ω^)・・・

  むむむ! 「告解」➡「懺悔部屋」で告る例のアレか  
       

 
    この男は、 まったく、何も、わかってませんな!?
懺悔(ざんげ)と混同されるけど別物よね?   
         
    
懺悔は仏教の概念で、キリスト教の正式用語は告解じゃな! 

         
 「キリスト教」って三位一体で、告解はその教義に基づく「秘跡」なんでしょ!?
そうじゃ、これはカトリックの公式な教理じゃ!  

 ええっ、      
         
    
カテキズム(教理問答)にも、しっかり位置づけられているわよね!     
         
      ドラマや映画のシーンでも、よく見かけるはずじゃよ!?
         
 キリストが教会に与えた罪の赦しの務めを具体的に実行する場所じゃからのぅ  

   そうやねんな!
            
 
信心深いカトリックでは月一回が決まりらしい!?   う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

           「核の冬の証拠はない」 gigazine.net
   … to be continued !!

       「聖書は『沈黙』を続ける神の言葉なのか?」 www.jw.org   

      「イエス・キリスト計画」の行方 teatime365.hatenablog.com 
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        『時間との戦いPART-1』 kazuki1026.hatenablog.com

   「夜空の天の川を背景に岩の上に立つ人」(Getty Images) forbesjapan.com

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     コンタクト (Credit- Kendall Hoopes from Pexels)sorae.info 

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       『時間との戦いPART-2』 kazuki1026.hatenablog.com 
     

    
ダ・ヴィンチの推理は続きます。 
  

巧妙化するフェイク情報のリスクをLLM×Agentic AIで自動分析 偽 ...
         「AI技術の氾濫」イメージ  jpn.nec.com

 近年の生成AIの急速な進化によって、誰でも気軽に精巧な画像表現や映像表現が可能になりました。

 しかしながら、その一方において、情報操作のために任意の人物のフェイク画像や映像を流布させたり、閲覧数稼ぎのためのデマで人々を混乱させたりするような困った問題も多数発生しています。

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    「情報」の信憑性のバランスイメージ kazuki1026.hatenablog.com 

     ★ 果たして、いったいパウロは、シロなのか、クロなのか?

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ダ・ヴィンチの罠 片務性

見出し画像
           「ローマの軛(くびき)」 note.com
         画像
       「ローマの軛と片務的な政(まつりごと)」 note.com  

     『アテナイの学堂」ラファエロ・サンティ画 ja.wikipedia.org


  世界雑学ノート「万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ」world-note.com   

   ★『ダ・ヴィンチの罠 真贋力』からのつづきです!

toumei-ningen.hatenablog.com

 

 『創世記』22章に出てくる『神がアブラハムを試したとされる「イサクの生け贄事件」(日本語では「イサクの燔祭」「イサク奉献」とも呼ばれる)出来事』に関して物申せば、イサクはPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患ってしまったとしても何の不思議もないと言えます! 

PTSD symbol with a brain outline isolated on white background. Anxiety disorder symbol conceptual design
      「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)daag.shoreline.edu  

 このエピソードを知らない人もいるかもしれないので、簡単に概略を紹介すると、

 ● 神はアブラハムに「あなたの子、ひとり子イサクをモリヤの山で燔祭としてささげよ」と命じます。

 ● アブラハムは朝早く出発し、イサクと若者たちと共に山へと向かいます。

 ● 山頂で祭壇を築き、イサクを縛って載せ、刃物を振り上げた瞬間、主の使いが「その子に手を下すな」と制止します。

 ● その代わりとして、角(つの)をやぶに引っかけた雄羊が与えられ、その羊がイサクの代わりに捧げられます。

 この出来事を通して、神はアブラハムの信仰を「試みた」と聖書は語るわけですが、概略とは言え、あまりにも簡単に説明し過ぎましたので、もう少しだけ詳しい内容について「AI」に聞いてみることにしました。

 

   ★ AI による概要
 
     聖書や神話を知らんと理解できんアートが多いのでエピソード別に ...  
 イサクの燔祭(はんさい)は、旧約聖書の『創世記』22章に記されている、信仰の父アブラハムに課せられた最大の試練の物語です。
 神がアブラハムに対し、年老いてから授かった最愛のひとり息子イサクを、生け贄(燔祭)として捧げるよう命じたという内容です。
 この物語の展開と結末は以下の通りです。
  • 神の命令: 神はアブラハムの信仰を試すため、「あなたの愛するひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭(焼き尽くす生け贄)として捧げよ」と命じました。
  • モリヤの山へ: アブラハムは神の言葉に従い、イサクとふたりの若者を連れて旅立ちました。山に着くと、イサクに薪を背負わせ、自らは火と刃物を手に山を登りました。イサクが「生け贄の羊はどこですか?」と尋ねると、アブラハムは「神が備えてくださる」と答えました。
  • 試練の成就と救済: アブラハムは祭壇を築き、イサクを縛ってその上に寝かせました。そしてナイフを振り上げ、まさに息子を屠ろうとしたその瞬間、天から神の使い(御使い)が呼び止めました。「その子に手を下してはならない。あなたが神を畏れる者であることがわかったからだ」。
  • 代わりの羊: アブラハムが辺りを見ると、角を藪に引っ掛けた一頭の雄羊がいました。彼はその羊をイサクの代わりに神への燔祭として捧げました。
 この絶対的な服従と神への信頼を示したアブラハムに対し、神は彼を祝福し、子孫が大空の星のように繁栄するという契約を結びました。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教において、究極の信仰の象徴として極めて重要視されているエピソードです。
 以上が「AI」による回答でした。

 さて、この逸話において小生が感じたことは、

 少なくとも、イサクの心になかに父アブラハムに対して精神的な拒否反応や心因的に拒絶する兆候が表われないものなのかと心配になってしまったのです。

 いや、むしろ本音を言ってしまえば、「PTSD」などを発症しない方がおかしいと思われるわけですよね!
PTSD psychiatric treatment in san tan valley az
      「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)grandcanyonpsych.com

 ちなみに、「PTSD」とは「心的外傷後ストレス障害」といって、命の危険を感じるような強いショック体験や、とてもつらい出来事の後にあらわれる心の障害を言います。

PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは?原因、症状、治療、PTSDに ...
        「PTSD」(心的外傷後ストレス障害) h-navi.jp

 ところで、

 この物語は歴史的に、強い批判や問いかけの対象になってきました。

 まず、言えることは神が子どもの犠牲を強いるかたちで命じることの「倫理性」が問われたことです。

 続いて、「アブラハムの従順さをどのように考えるか?」が、問題となりました。

 果たして、それを「信仰」と呼べるのか?、それとも、ただの「盲従」なのか? が、問われたわけです。

 そして、冒頭に明記した「イサクの心情やトラウマをどう考えるか?」ですね!

 哲学や神学では、この物語を通して「信仰と道徳の衝突」「神の命令と人間の良心」などといったテーマでたびたび議論されてきたようですが、現代の多くの解説では、歴史的事実というよりも「物語が伝えようとしていること」に焦点を当てて読まれることが多いようです。

 たとえば、

 「理解不能な命令」にどう向き合うかを通して、信仰の成熟や葛藤を描く物語としてとか、絶対だと思っていた「自己のよりどころ」(イサクの将来や一族の長としての責任や責務)さえ手放す覚悟を問う物語と言ったような読み方になるのでしょうか?

               

 さて、これを「契約」だとするのであれば、理想的には片務的(片務性)ではなく、双務的(双務性)でなければなりませんが、この行為が「アブラハム契約」における前提条件になっていたとすると、それは限りなく片務的(片務性)あると言わざるを得ません。

 「アブラハム契約」自体は、神がアブラハムと結んだ無条件の契約であり、神の側から一方的に結ばれた約束であって、人間の不信仰や失敗によって破棄されることはない片面(片務的・一方的)契約とされています。

 そうであるにもかかわらず、神は理不尽にもアブラハムに生け贄としてイサクを要求したのです。

 たとえそれが神の命令であり、神が我々人間をつくった第一原因者(動かすもの原因)と動かされるもの(結果)の関係において、他によって動かされることがなく、他を動かす「不動の第一動者」をいい、これを神であるとする)であったとしても ・・・ です。

 しかも、しかも、ですよ!

 同じように、族長時代からモーセの時代にかけても、性懲りもなく『ヨブ記』に登場する主人公のヨブに対して、彼の信仰の度合いや深さを確認するかのように悪魔(サタン)にそれを試させているのですから、もはや「何をかいわんや」なわけです!

              

 これらの逸話は『旧約聖書』に記載されている物語ですが、いずれにしても、間尺に合わないのが『聖書』という代物であって、特にそれが顕著なのが、四福音書をはじめ、使徒言行録、パウロ書簡、ヨハネの黙示録などの『新約聖書』27巻でしょうね!?

 とにかくも、『聖書』にはウソが多く、信頼に足る書物ではありませんが、その影響力だけは半端なく強大であり、特に紀元後の人類は常に『聖書』の文言に右往左往させられてきたのです。

 そして、現代はまさに「AI」を駆使した『偽情報』全盛の時代に突入しています。

 次回では、そんな『偽情報』における混乱の顛末をパウロの主導による救世主を創作するための「イエス・キリスト計画」と絡めて考察してみたいと考えています。

  むむむ! 「救世主(メシア)」➡「神」の創造ですか?  
       

 
    この男は、 まったく、何も、わかってませんな!?
パウロによる遠大なる神の創造計画だったの?   
         
     
いや、自己顕示欲や支配欲ではない宗教的な野望じゃな! 

         
  でも、「キリスト教」って、イエスを神として証しする宗教でしょ!?
そうじゃよ、「福音を世界に広げる」野望じゃ?  

 ええっ、      
         
         それには異邦人への布教が欠かせないわね!      
         
       だからこそ、サウロからパウロに改名したんじゃよ!?
         
  過去において、迫害者であったという負い目を「異邦人伝道」に利用したんじゃ!

   なんでやねん!
            
 
迫害者サウロから回心し、各地に共同体をつくった!  う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

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   「夜空の天の川を背景に岩の上に立つ人」(Getty Images) forbesjapan.com

      宇宙に存在するのは、地球人だけなのだろうか(Getty Images)forbesjapan.com 

     コンタクト (Credit- Kendall Hoopes from Pexels)sorae.info 

        「なんだかなぁ!」 gigazine.net & spaceshipearth.jp 
          
         『最後の晩餐』ヨハネ  『岩窟の聖母』マリア     
               
               マグダラのマリア  
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       『時間との戦いPART-2』 kazuki1026.hatenablog.com 
     

    
ダ・ヴィンチの推理は続きます。 
 


    「ホントは、どうなんでしょうね?」 yuri-kurashi.hatenablog.com 
      
   『イサクの犠牲』レンブラント・ファン・レイン ja.wikipedia.org 

 この「イサクの燔祭」「イサク奉献」とも呼ばれる出来事を「十字架の犠牲」によるイエスの死の伏線であるとする向きもあるようですが、小生に言わせれば、無理強いもいいところの只の言いがかりにすぎません。

 伏線である根拠として、「アブラハムのひとり子イサク」と「神のひとり子イエス」との類似性が指摘されますが、それならば、女奴隷のハガルとの間に生まれたイシュマエル(アラブ人の祖とされる)はどこに行ってしまったのでしょうか!?

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    「片務」ではない「双務」のイメージ kazuki1026.hatenablog.com 

 彼はアブラハムの子ども(長男)ではないとでも言うつもりなのでしょうか!?  

 どう考えても「こじつけ」にしか聞こえないのですがねぇ( ^ω^)・・・?

ダ・ヴィンチの罠 真贋力

真贋力 ―― 心音聴覚がひらく、響きのチカラ!|風間裕継
          「真贋力」のイメージ mbp-japan.com 

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       生と死と復活のはざま kazuki1026.hatenablog.com     

     『アテナイの学堂」ラファエロ・サンティ画 ja.wikipedia.org


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   ★『ダ・ヴィンチの罠 亜麻布』からのつづきです!

toumei-ningen.hatenablog.com

 

 最新の情報によると、「トリノの聖骸布」は限りなく本物である方向に近づいてきている状況にあって、その種の動画も数多く出回っているようなのですが、小生のアプローチ(取り組み方)は依然として贋作(傑出した創作物)としての対象でしかありません。

 然は、然りながら、

 この件に関するバチカンの立場や見解は比較的はっきりとしているようです。

 バチカン(ローマ教皇庁)では、「トリノの聖骸布」の真贋について公式に最終判断を下していません。

 カトリック系や一般メディアの解説でも、バチカンは真偽を断定していないと繰り返し説明されています。

 教会は教会で、この亜麻布を「イエスの埋葬布だと信じる人もいる重要な聖遺物候補」として尊重しますが、「確実にキリストの遺体を包んだ布である」とは宣言していません。

 「トリノの聖骸布」はバチカンの所有物あり、トリノ教区が管理していますが、歴代の教皇は、次のような言い方で信心を促してきました。

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          「聖骸布キリストの顔」 karapaia.com

 教皇ベネディクト16世は、2010年のトリノ訪問時に、聖骸布を「十字架につけられた人の血で書かれたような聖なるイコン」と呼び、『福音書』が語るイエスの遺体の包布と「完全に一致する」と語りましたが、科学的真贋論争には踏み込みませんでした。

 こうした表現からもわかるように、「本物である」という信仰を尊重しつつも、教義として「本物」とは定義してはいないのです。

 カトリックの解説サイトなどでも、「教会は聖骸布を信心を助ける『イコン』として認めるが、イエスの埋葬布であると教義的に確定してはいない」という趣旨の言葉で繰り返し説明されています。

 科学的には、1988年の炭素年代測定で「中世の布」とする結果が出た一方で、その後の研究データから「偽造とは断定できない」「画像は現在の技術でも再現できない」とする報告もあり、こうした賛否両論が続くなか、バチカンは「どちらと決める」立場を取らずに、信心の対象としての価値と学術研究の自由の両府を尊重する方向で管理しているというのが、実情のようです。

 と、ここまでが一般的かつ常識的な見方ですが、『ダ・ヴィンチの罠』での考察は一味、違います。

 簡単に言ってしまえば、バチカンは、パラドックスのドツボに嵌まるのをいたく警戒しているのです。

 「どういうことなのか?」と言うと、

 「トリノの聖骸布」の真贋についてのバチカンの見解は、おそらく「本物」であると理解していることでしょう。

 ただし、その立場はきわめて微妙です!

 『新約聖書』のなかでも、イエスの埋葬の記事は『福音書』のすべてに記載があり、とても重要な場面であることがわかりますよね。

 四つの『福音書』すべてに登場するのはアリマタヤのヨセフだけで、言及される人物の名前や人数、香料や埋葬布の扱い、番兵や封印の有無などは『福音書』によってそれぞれに違っています。

 『共観福音書』では、複数の女性たちが埋葬の様子や墓の位置などを見届けていたことを強調したうえで、安息日が明けたのち、彼女たちは再び遺体に香油を塗るために墓へと向かいますが、そこで展開される筋書きは「空っぽの墓」と「復活」の証言へと見事に物語がつながっていくわけです。

 『福音書』に共通している「訴求ポイント」は次の二つです。

 ① イエスは実際に死に、正式に墓に葬られたこと。

 ② その墓がのちに「空の墓」として証言されること。

 要するに、この二つはどうしても必要不可欠な事柄だったわけですね!


           「空っぽの墓」 www.kirishin.com

 それでは、ここで、バチカンが忌避するパラドックスについての考察に一旦、話を戻すことにしましょう。

 仮に、「トリノの聖骸布」を「本物」と認めてしまうと、キリスト教の根幹にある『福音書』の記述との矛盾(主にマタイとヨハネの『福音書』との齟齬)が露呈してしまうのです。

 たとえば、

 『マタイの福音書』27章57-66節では、

 アリマタヤのヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には番兵を置き、大きな石に封印をしておいて立ち去った。

 『マルコの福音書』15章42-47節では、

 アリマタヤのヨセフが亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って作った墓に納めた。

 『ルカの福音書』23章50-56節では、 

 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩で掘った墓の中に納めた。

 『ヨハネの福音書』19章38-42節では、

 彼ら(アリマタヤのヨセフとニコデモ)はイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。

 つまり、『四福音書』に共通する記述では、亜麻布で包んだ(巻いた)ということになっていますよね!?

 しかし、「トリノの聖骸布」は、亜麻布で包んだ(くるんだ)というよりは、覆った、あるいは、被せたと表現されるべきものであって、この辺りの指摘(ツッコミ)を回避したい旨の対応であることが想像されるわけなのです。

 しかも、『ヨハネの福音書』では、アリマタヤのヨセフに加えて、ニコデモが登場します。

 ニコデモが没薬と沈香を大量に持ってきて、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって亜麻布と香料で遺体を巻いたと記しています。

 そして、十字架につけられた場所の近くに新しい墓があり、安息日の準備の日であったため、そこに急いで葬ったと説明していて、イエスが本当に死に、その遺体を墓に葬ったことを強調しているのです。

 『マタイの福音書』27章62-66節では、祭司長たちとファリサイ派がピラトに願い出て、墓に番兵を置き、大きな石に封印をします。

 その理由(わけ)は、いわゆる「遺体盗難説」をあらかじめ封じるためで、ローマの兵士による見張りと封印が施されたにもかかわらず、墓は空っぽであったというストーリーを展開させるための布石なのです。

 畢竟、マタイは「弟子たちが盗んだわけでもなく、番兵と封印がなされ、公的権力を使って厳重に監視していた墓が空になった」ことで「復活」の事実性を弁証的に示しているのです。

 パウロも「キリスト(イエス)は死に、(墓に)葬られ、三日後によみがえった」と繰り返し要約しており、埋葬は「死」が現実であったことを示す重要なファクターであったと理解することができます。

 遺体が確かに墓に納められたという事実が、のちの「空っぽの墓」=「復活」の証言の前提になっているわけですね。

     burialburial
     「イエスの埋葬」亜麻布に巻かれたイエスの遺体 godarea.net

 繰り返しになりますが『ヨハネの福音書』19章によれば、

 イエスの埋葬は、アリマタヤのヨセフとファリサイ人のニコデモが、ユダヤの埋葬方法にしたがって、遺体を丁寧に洗い、没薬とアロエを混ぜ合わせたものや香料と一緒に亜麻布でグルグルと包み込み(くるみあげ)、岩を掘って造った新しい墓に納め、墓の入り口に大きな丸石をころがして塞ぎ、ローマ兵によって封印が施されました。

「墓の封印」の場面を描いたイラスト。墓の大きな石に赤い封印が施され、前には槍を持った二人のローマ兵が立っている。左側にはピラトに報告する兵士、右側には黒い衣を着た二人のパリサイ人が登場している。中央には「墓の封印|疑いと恐れが交差する夜 マタイの福音書27章62–66節」のタイトル文字が重ねられている。
            墓の封印 arkofgracegallery.com

 しかしながら、イエスの埋葬に際し、その遺体に塗油することができませんでした。

 イエスは安息日が始まる3時間ほど前に死んだので、時間が足りずに身体に油を塗ることが出来ずに不十分なまま葬ったのです。

 マタイやマルコの福音書では、マグダラのマリアと「もう一人のマリア」など数人の女性の弟子たちが、遺体が墓に納められる様子を「向かい側に座って」見守っていたと記されています。

 これらを勘案すると、直接埋葬作業をしたのが「アリマタヤのヨセフとニコデモ」で、その様子を見守り、のちに墓を訪ねたのが「マグダラのマリアたち女性の弟子」ということになります。

 ユダヤの律法では、安息の休みが義務付けられていたために、安息日には葬儀を行うことができません。

 それで、幾人かの女性の弟子たちが安息日が明けたのちにイエスの墓に行って、埋葬のしきたりをまっとうしようとしていたのでした。

              

 さて、今回のタイトルは『ダ・ヴィンチの罠 真贋力』です。

 『真贋力』は辞書に載る一般名詞ではなく、「真贋を見抜く力」という意味で使われる造語的な表現ですが、美術品やブランド品などの世界で、真贋を見極めることを指してよく使われる言葉です。

 真贋は「本物と偽物」という意味ですが、情報の世界では「情報が本物かデマかを見抜く力」という文脈で語られることが多いようです。 

 要するに『真贋力』とは、本物と偽物や真実とデマなどを見抜く目利きのような力というイメージですかねぇ!?

 果たして、小生にそのような物事の本質を見極める『真贋力』が備わっているかどうかはわかりませんが、ダ・ヴィンチと同様に『新約聖書』、それも「十字架上での死」に対する解釈とその後の「復活」にまつわる記事には眉に唾をつけて読んでいます。

          
             サウロ(パウロ)の肖像

 だからこそ、ペテン師パウロが主導する「イエス・キリスト計画」とその実行部隊としての(仮称)「十字架同胞団」の実在を想定してみたわけで、『新約聖書』における「信憑性」のほとんどすべては、パウロの存在とその言動にかかっていると言っても過言ではなく、たとえ、彼の死後になって作成・編纂された『新約聖書』であったとしても「キリスト教」の教義・経典というよりは、やはり、「パウロ教」のそれであるとする方が正しいように思われてならないのですが ( ^ω^)・・・

  むむむ! 「キリスト教」ではなく、「パウロ教」ですか?  
       

 
     この男は、 まったく、何も、わかってませんな!
パウロがいなければキリスト教はなかったの?   
         
 
あったにはあったが今ほど盛んではなく、しがないユダヤ教の一派じゃろうな! 

         
  でも、「キリスト教」って、イエスを神として証しする宗教でしょ!?
そうじゃが、異邦人への布教はどうだったか?  

 ええっ、      
         
   「ユダヤ教ナザレ派」、若しくは「イエス派」が、精々だったじゃろ!      
         
     それじゃあ!クリスチャンって呼び名もなかったってこと!?
         
      それは何とも言えんが、象徴としての十字架はあやしい! 

   ホンマかいな!
            
 
Christianus(クリスティアヌス)はどうなるわけ!?  う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

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        「なんだかなぁ!」 gigazine.net & spaceshipearth.jp 
          
         『最後の晩餐』ヨハネ  『岩窟の聖母』マリア     
               
               マグダラのマリア  
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       『時間との戦いPART-2』 kazuki1026.hatenablog.com 
     

    
ダ・ヴィンチの推理は続きます。 
 


       「どうなんでしょうね?」 yuri-kurashi.hatenablog.com