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透明人間2号です!

ダ・ヴィンチの罠 告解室

 告解/ゆるしの秘跡のやり方・意味・手順|コレを読めばすぐ告解 ...
  「告解室」(懺悔部屋)x.com    「赦しの秘跡」(告解室) witam-pl.com

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       生と死と復活のはざま kazuki1026.hatenablog.com     

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  世界雑学ノート「万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ」world-note.com   

   ★『ダ・ヴィンチの罠 偽情報』からのつづきです!

toumei-ningen.hatenablog.com

 

 カトリック教会での「告解」は、洗礼を受けた信者が、自分の罪を司祭に打ち明けて、神のゆるしと和解を受けるための儀式で、現在の公的な名称は「ゆるしの秘跡」「和解の秘跡」とも呼ばれていますが、小生には、この行為が繰り返し何度も行われることがどうしても理解できないのです。

 洗礼を受けた後に行われる儀礼的なものなら、いざ知らず敬虔な信徒に至っては毎日のように「告解室」に向かう強者(つわもの)もいるとか ( ^ω^)・・・

 日本語の日常会話で言うところの「懺悔(ざんげ)」とは違い、「告解」はカトリックの専門用語で、多くの場合は教会で司祭に対して密かに繰り返し行われるわけです。

 細かな作法は教会によって少しずつ異なるのですが、おおまかには次のような流れのようですね。

  ① まず静かに祈り、自分の行いを振り返る。   

  • ② 司祭の前で、自分が犯した罪を包み隠さずに話す。
  • ③ 司祭から助言や励ましを受ける。
  • ④ 司祭から「ゆるし」の言葉が与えられる。
  • ⑤ その後、与えられた償いの行いや祈りをする。

 この一連のプロセスは、単に「悪い行状をすべて報告し、清算してゼロに戻す」というよりも、自分自身を見つめ直し、生き方を少しずつ変えていくための時間という意味合いが強いと説明されますが、「ホントですか?」小生には、到底のことに信じられません。

  赤信号みんなで渡れば怖くない」の人気タグ記事一覧|note ...

 ご都合主義の権化というか、「告解」すれば、事足りて「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とばかりに告白しまくっているようにしか感じられません。

        昭和時代には通用した標語?🤔 『赤信号みんなで渡れば怖くない ...
   「赤信号、みんなで渡れば怖くない」www.facebook.com

 この「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉を文字通りに解釈すれば「信号無視も大勢でやれば怖くない」という意味になりますが、実際には次のような集団心理を指していると言われています。

 「本当は良くないことだと分かっていても、まわりのみんなもやっているならと安心して実行してしまう」すなわち、みんなでやれば、ひとりひとりの罪悪感や責任感が薄れるという集団心理を「ことわざ」風に表現しているわけで、つまるところが「多数派に紛れて悪いこともやってしまう心理」を皮肉っぽく表現した言葉ですよね。

見出し画像
         「赤信号、みんなで渡れば怖くない」note.com

 カトリックでは、司祭は告解で聞いた内容を絶対に漏らしてはならないという厳格な守秘義務を負いますが、これは教会法でも明確に定められた「絶対秘匿」で、破ることは重大な違反とされているようです。

 しかし一方で、近年においては児童虐待や殺人などの深刻な犯罪が告解で語られた場合に、司祭が守秘義務を破ってでも通報すべきかどうかという社会的議論も起きています。

 これは国や地域によって法制度や考え方が分かれており、「告解の性格」と「被害者の保護」や法的義務をどう両立させるか、現在進行形で模索されているテーマですよね。

        
          「告解室」(懺悔部屋)x.com

 現代的な論考では、告解を「宗教儀礼」にとどまらず、人が自分の過ちを言葉にして他者に受け止められることで、自己理解を深めたり、人間関係を修復したりするためのひとつの仕組みとして捉える見方も紹介されているようですが、カトリックの告解とプロテスタントの懺悔では、同じ「罪を認める行為」でも、その仕組みと考え方には相当な開きがあり、かなり違っているようですね!

 カトリックでは、「洗礼後に犯した罪を司祭に打ち明け、神の赦しを受けるための秘跡」として制度化されており、司祭が正式に赦しを宣言する儀式になっています。

 ところが、プロテスタントでは「罪の告白」それ自体はとても重視されますが、司祭に相当する人に対する「儀式としての告解」は行わず、「神に直接悔い改めること」が中心になります。

 いずれにしても、不可解であることに変わりありません。イエスが贖った罪は、原罪をはじめとする「すべての罪」ではなかったのですか!?

 疑心暗鬼になったしまったので、AIに訊いてみることにしました。

 

          【AI による概要】
        キリスト、十字架、贖いの関係について:分かりやすく解説!
 イエス・キリストは十字架の死と復活を通して、全人類の過去・現在・未来における「すべての罪」を贖いました。これには、偶像崇拝や嘘、貪欲などの具体的な罪に加え、神から離れて生きようとする根本的な自己中心性や、罪を犯さずにはいられない人間の状態そのものが含まれます。 
 聖書によれば、罪の代価は「死」であり、何の罪もないイエスが身代わりとなってその罰(神から見捨てられる痛み)を全て背負いました。
 この完全な犠牲により、キリストを信じる者はすべての罪を赦され、神との和解と永遠の命を得る道が開かれています。

 カトリックにせよ、プロテスタントにせよ、日本語ではどちらも「神父さん」であり、「牧師さん」であるわけですが、告解と懺悔=「悔い改め」「罪の告白」との関係ではその役割に大きな違いがあります。

 カトリックの司祭は「告解を聴く人」であり、「赦しの秘跡」を執り行う当事者です。信徒は司祭の前で罪を語り、司祭から赦しが宣言されます。

 プロテスタントの牧師は「信徒の代表、説教者」であり、「告解を聴いて赦す人」ではありません。

 信徒が牧師に相談したり、罪を打ち明けることはありますが、それはカウンセリングや相談であって、「秘跡としての告解」には位置づけられません。

 日本語だと、カトリックの告解もプロテスタントの悔い改めも、まとめて「懺悔」と呼ばれてしまうことが多いようですが、カトリック信者は、本来の用語としては「懺悔」より「告解」「赦しの秘跡」と言います。

 プロテスタントは「悔い改め」「罪の告白」と言うことが多く、「懺悔」は説明用として使用することが多いようです。

 そのため、TVドラマなどで「懺悔室」と呼んでいても、部屋のつくりや神父のいる感じなどからも「こりゃあ、カトリックの告解だな」とわかることがありますよね!

  •        
           「赦しの秘跡」(告解室) witam-pl.com

 インターネットやSNSでの「告白文化」との対比で言えば、「誰に」「どのくらいの責任をもって」「どこまで打ち明けるのか」という問題も含め、現代的なテーマとしてかなり研究されているようです。

 ところで、日本語には「懺悔」「告白」「悔い改め」「悔悛」など「告解」に似た言葉が数多くありますよね。

 大抵の場合には「懺悔」のひとことで事足りてしまいそうですが、宗教制度や法律の一般的な知識として、「告解」において殺人を告白されたらどうするのでしょうか?

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      生と死と復活の告解(懺悔) kazuki1026.hatenablog.com

 カトリック教会での「告解」は、信者が司祭に罪を打ち明け、神のゆるしを願う秘跡として、正式にカテキズム(教理問答)に位置づけられています。

 司祭はそこで聞いた内容について、絶対的な守秘義務を負っており、故意に漏らせば厳しい処分を受けるとされています。

 特にキリスト教(カトリックなど)の「告解の秘匿」では、罪の内容が殺人であっても「外に漏らしてはならない」という原則が非常に強く守られています。

 そのため、宗教内部だけを見れば、「たとえ殺人の告白であっても守秘せよ」という教義規則が中核にあります。

 司祭は、告解で知った内容を一切外部に出せないという強い義務を負い、例外は原則認めないという立場を取る教会が多いようです。

 教会法では、告解の秘密を破った司祭は自動的に破門などの重い処罰対象になるとされ、たとえ、それが殺人の告白であっても例外にしないという立場が伝統的に取られているようです。

 各国の世俗法は「殺人の告発義務」と「宗教上の守秘」をどう扱うかで悩んでおり、児童虐待などをきっかけに「告解内容も通報義務の対象にすべきか」という議論が続いています。

 ただ、カトリック教会そのものは「告解の秘密は絶対」と教えており、司祭は告解の場を離れても、その内容を証言したり警察に話したりしてはならないという立場です。

 したがって「告解で殺人を告白されたら」というのは、典型的には宗教者が告白を受けた場合をイメージしていると思いますが、一般論としては次の二つを分けて考える必要があります。

  • ① 宗教内部のルール
  • ② 各国の法律や裁判の運用

 この二つは一致しないことが多く、国や宗派によってかなり違います。 

 司祭自身が警察に通報することはできませんが、次のような方向性はあり得るとされています。

  • ① 告白した本人に自首を強く勧める。
  • ② 被害者や社会への償いをするよう促す。
  • ③ 告解で聞いたことを直接の根拠にせず、一般論として説教や助言を行う。

 ただし、具体的な動き方や、どこまでを「告解の秘密」とみなすかは、国や教区、個々のケースによっても異なるため、最終的には専門家に確認する必要がるのかもしれませんね。

 ちなみに、

 国家の法律は宗教とは別に「証言義務」や「通報義務」を定めています。

 その中で、聖職者と信徒の会話に特別な秘密特権を認めるのかどうかが常に問題になります。

 特に近年は、児童虐待などの問題をきっかけに、「告解で知った内容も含めて通報義務を課すかどうか」を巡って、各国で議論や法改正が続いています。

 日本では、いわゆる「告解の秘匿」を正面から規定した特別の法律はなく、宗教者と信者の会話に対して「一律の秘密特権」を明文で認める規定もありません。

 一方で、刑法上は、他人の犯罪を通報しなかったこと自体を原則として処罰する一般規定はありません。

 代わりに、証拠隠滅や犯人隠避など、積極的に手助けした場合には処罰される形になっています。

 そのため、簡略化すると、次のような一般的イメージになります。

  • ① 単に「聞いただけ」で、特に行動していない段階では、直ちに犯罪になるとは限らない。
  • ② しかし、真犯人を逃がすために虚偽の供述をしたり、証拠を隠したりすると、証拠隠滅罪や犯人隠避罪などに問われる可能性がある。

 実際にどう評価されるかは、どの国のどの時点の法律か、どこまで積極的に「逃亡を手助けしたか」など事案の細部次第でいかようにでも変わってくるようです。

 この辺りのことは「宗教内部の倫理」と「国家の法秩序」がぶつかる典型例として、世界的にもずっと議論が続いている特殊な分野だと言えるでしょう。

 ところで、

 カトリック教会の規定としては「少なくとも年に一度は告解するように」という勧めがあり、これが最低ラインの目安になっています。

 研究データでは、日本のあるカトリック信者グループで「告解の平均回数が年6.90回」と報告されており、およそ「ほぼ毎月」告解している計算になります。

 一方で、別の資料では、日本では神父の数が少ないことなどから、実際には「クリスマス前とイースター前の年2回」を中心に告解を受けている信者も多いとされています。

 このため、

 ★ 最低限の目安は「年1回」

 ★ 実務的に多いのは「年2回程度」

 ★ 信心深く実践しているグループでは「月1回前後(年7回前後)」

 という幅があり、「クリスチャン全体での一律の平均」という数字は出しにくい状況にあるようです。

 告解を秘跡として正式に行うのは主にカトリックと正教会です。

 多くのプロテスタント教会では、神への直接の悔い改めを重視し、カトリック型の「告解室でのゆるしの秘跡」は通常行われません。

 そのため、「クリスチャン全体の平均回数」というより「カトリック信者の中での告解頻度」と理解した方が実態に近いようですね。

 以上、AIによる回答を中心に個人的な意見や感想を交えて構成してみました。

 総じて言えることは、やはり、日本人からすると奇妙であり、不可解にして奇天烈な教義体系であると断ぜざるを得ません。

 そもそも「善行と救いは別物で、ただ信じることのみに意味がある」とするキリスト教(パウロ教)に、レオナルド・ダ・ヴィンチが、異議(罠)を差し挟み(仕込み)たくなる気持ちが痛いほどにわかります。

 然は然りながら、世界最大の信者数を誇るキリスト教(パウロ教)の教義にそれほどの落ち度があるとも思われないので、「善行と救いは別物で、ただ信じることのみに意味がある」とするテーマでAIに質問をぶつけてみました。 

💡 救いと善行の位置づけ

 多くのキリスト教の教派では、救いは「神の恵みを、キリストを信じる信仰によって受け取ること」と説明されます。人間の努力や善行の「点数」で救いが買えるわけではない、という理解です。

 特に宗教改革以降の流れでは「人は律法の行いではなく、キリストを信じる信仰によって神の前に義とされる」という考えが強調されてきました。

✨ 善行には意味がないのか

 一方で、「信仰のみだから善行は不要で意味がない」という理解は、多くの教会では誤解だと説明されます。

 信仰によって救われた人が、神への感謝や隣人への愛として自然に行うのが善行だ、と考える立場が一般的です。

 善行は「救いを得るための条件」ではなく「救われた者の実り」だ、というイメージに近いです。

🔍 「ただ信じること」の中身

 「ただ信じる」と言うと、頭の中で「そう思う」と決めるだけのようにも聞こえますが、多くの教会はそれを「神への信頼と、そこから生き方が方向転換していくこと」だと説明します。

 なので、
 「善行と救いはまったく無関係」ではなく、「救いの理由は善行ではなく信仰だが、本物の信仰は善行を生み出す」という整理がよくされます。

 以上がその回答ですが、果たして、実際はどうなのでしょう!?

   むむむ! 「本物の信仰は善行を生み出す」わけか  
       

 
    この男は、 まったく、何も、わかってませんな!?
懺悔を告解と言うことがそもそも欺瞞よね?   
         
     
「告解」と言い募ることで、自己弁護しとるんじゃよ! 

         
    ご都合主義の詭弁で、「告解」とはよくぞ言ったものよね!?
そうじゃのぅ、何から何まで見せかけじゃよ!  

 ええっ、      
         
      
カテキズム(教理問答)の存在も、しかりってことなの!     
         
  そうじゃ、問答形式の信仰教育用のテキストで、よく見かけるやつじゃよ!?
         
   そうでもせんと罪の赦しと永遠の命の誤魔化しを隠しきれんからのぅ  

   ホンマでっか!
            
 
「復活」からして虚構の極みだしね!?        う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

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ダ・ヴィンチの推理は続きます。 
  

巧妙化するフェイク情報のリスクをLLM×Agentic AIで自動分析 偽 ...
         「AI技術の氾濫」イメージ  jpn.nec.com 

        『新約聖書』の虚構(偽りの作り話だったのか?) 

 ここで、さらに、付け加えるとすれば、

💡 どういう立場の言葉なのか

 いまの「善行と救いは別物で、ただ信じることのみに意味がある」という考え方は、代表的には次のような立場に近いと思われます。

 ★ キリスト教の一部の立場
 「人は行いによらず、キリストの救いを信じる信仰によって義とされる」という、いわゆる「信仰義認」「信仰のみ」という考えがあります。

 ★ 浄土真宗の立場に近いニュアンス
 「自分の善行や修行ではなく、阿弥陀仏の本願を信じてまかせる他力によって救われる」と説かれます。救いの要は、善行の量ではなく「本願の救いを疑いなく信じる信心」にあるとされます。

 どちらも「人間の側の善行だけでは救いには届かない。救いは根本的には“信じて委ねること”にかかっている」という点で共通しています。

🧠 善行との関係づけ

 ただ、多くの教えでは「善行は意味がない」とまでは言い切らず、次のように整理することが多いです。

  ★ 救いの条件ではないが、救いを受けた結果として生まれてくるもの、救いが「信じてまかせること」によるとしながらも、その救いに出会った人の生き方として、自然に善行や他者への思いやりが芽生えると説かれます。

 つまり、「善行と救いは別物」というのは「善行が“救いを買うためのポイント”ではない」という意味で語られることが多く、「善行は一切不要・全く無意味」という主張とは少しニュアンスが違うことが多いようですね。


  「ホントのところは、どうなんでしょう?」 yuri-kurashi.hatenablog.com 

ダ・ヴィンチの罠 偽情報

偽情報はかつてないほど複雑化しており、メディアと情報のリテラシー教育が不可欠となっています。
   「偽情報」のイメージ:Unsplash/Hartano Creatives 画像元 jp.weforum.org  

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   ★『ダ・ヴィンチの罠 片務性』からのつづきです!

toumei-ningen.hatenablog.com

 

 『偽情報』(ディスインフォメーションは、近年、生成AIなどのテクノロジーによって増幅され、かつてないほどに複雑で危険な「罠」と化しており、今日的な大問題として喫緊なる対応が求められています。

 そこで、

 あらゆる世代やそれぞれのセクターなどにおいて、メディアと情報に関する十分な知識を効果的に取り入れることが、情報リテラシーだけでなく、社会全体の情報レジリエンスを高めるために不可欠なのですが、現代ほどではないにしろ、かつて『偽情報』がひとりの男の書簡によって、信仰共同体のなかに流布(共有)され、次第に侵食されていったことをご存じでしょうか!?

 小生が、つらつら考えるに ・・・

 なにゆえ未来の我々に対して、かくも不可解なる「罠」の数々をレオナルド・ダ・ヴィンチが提供しているのか、と言えば、ひとえに『聖書』それも『新約聖書』に対する不信感からだと思われます。

 最近、巷では「エゼキエル戦争」の話題で、その場が盛り上がったりすることが頻繁に見受けられるようですが、エゼキエルは『旧約聖書』に登場するユダヤ人の祭司であり預言者です。

 時代はバビロン捕囚の時期(ユダの民と共にバビロンに連行された人)で、神から幻を与えられ、多くの預言をおこなった人物であり、『旧約聖書』の大預言書のひとつとされる「エゼキエル書」は彼が見た幻の数々とメッセージをまとめた書物とされています。

 『旧約聖書』の「預言書」について、AIに尋ねてみたので一通り紹介しておきます。

 📘 預言書とは何か

 旧約聖書の中で、預言者と呼ばれる人たちのメッセージをまとめた書物のことを指します。
 神からの言葉を民に伝える「告知」としての性格が強く、当時の社会批判や将来への約束、救いに関する言葉が多く含まれます。

 一般的に「預言書」と呼ばれるのは、次の書物です。

 大預言書(4書)

区分 書名 主な内容の方向性
大預言書 イザヤ書 裁きと救い、メシア預言
大預言書 エレミヤ書 エルサレム滅亡前後の預言
大預言書 エゼキエル書 バビロン捕囚下での幻と回復
大預言書 ダニエル書 物語と黙示的な幻

 「大」は内容の分量が多いことを示していて、重要度の上下ではありません。

 十二小預言書(12書)

区分 書名 一言の特色
小預言書 ホセア書 神の愛と不信仰な民
小預言書 ヨエル書 主の日と悔い改め
小預言書 アモス書 社会的正義への警告
小預言書 オバデヤ書 エドムへの裁き
小預言書 ヨナ書 ニネベと神のあわれみ
小預言書 ミカ書 裁きと平和の約束
小預言書 ナホム書 ニネベ滅亡の宣告
小預言書 ハバクク書 悪と信仰の問いかけ
小預言書 ゼパニヤ書 主の日のさばき
小預言書 ハガイ書 神殿再建への励まし
小預言書 ゼカリヤ書 復興と将来の希望
小預言書 マラキ書 契約と礼拝のよみがえり

 これら十二書をまとめて「十二小預言書」と呼び、一つのまとまりとして扱う伝統もあります。

 🏛 ユダヤ教での「預言書」

 ユダヤ教のヘブライ語聖書では、旧約を「律法」「預言書」「諸書」の三つに分けます。
 このときの「預言書」には、ヨシュア記、士師記、サムエル記上下、列王記上下などの歴史書も「前預言書」として含まれます。

 🔍 読むときのポイント

 預言書は「未来占い」ではなく、神との契約を破った民への警告と、悔い改める人への回復と希望の宣言がセットで語られます。
 多くの箇所で「メシア(救い主)」に関する預言が含まれていると理解され、新約聖書ではそれがイエスに結びつけて読まれます。

 以上、AIによる概略的な内容についてのみ掲載いたしました。

 多くがメシア預言だと理解されているようですが、 

 この『旧約聖書』の預言を実に上手く利用してイエスをメシア(救世主)から神にまで祀り上げたのが、稀代のペテン師パウロ(サウロ)だったのです。

 彼は、そのためのプラン(スキーム)として「イエス・キリスト計画」を立案し、その実行部隊として要請・配備された集団が(仮称)「十字架同胞団」という組織だったのです。

 ここで、「プラン」と「スキーム」の違いについて少しだけ言及すれば、プランは「実行内容やアイデアをまとめた計画」であり、スキームは「より具体的な流れや枠組みといった計画をスムーズに推し進めるための仕組み」を指します。

 誰が何をどう進めるのか、といった実際に実行する場合における手順や資金の調達、組織の運営方法などの体制までを含めた総合的かつ詳細的なニュアンスが「スキーム」ということになるのでしょうか?

 それではこの辺で「偽情報」に話を戻すことにしましょう。

 「偽情報」とは、個人、社会、組織、国家に危害を加える目的で、発信者が意図的かつ意識的に作成・拡散する虚偽の情報ですが、勘違いや誤解から拡散されてしまう「誤情報(ミスインフォメーション)」とは異なり、悪意や明確なる意図がある点がなんと言っても特徴であり、厄介で始末に困るわけです。

 「偽情報」の中には『四福音書』や『使徒言行録』(使徒行伝)など『新約聖書』のほとんどがその対象となるわけですが、厄介で始末に困るのは、かなりの部分が事実に即していて、その中の主要な一部分だけが偽の情報だという点です。

 その典型例が『パウロ書簡』13通ですので、今回はこちらを取り上げてみたいと思います。

 ★ パウロ書簡は、その内容や宛先によって以下のように分類されます。

 四大書簡(主要書簡)
 パウロの神学の中心となる最も重要かつ長い手紙です。 

  • ローマの信徒への手紙
  • コリントの信徒への手紙一
  • コリントの信徒への手紙二
  • ガラテヤの信徒への手紙
 獄中書簡
 パウロが投獄されていた際に執筆したとされる4つの書簡です。
  • エフェソの信徒への手紙
  • フィリピの信徒への手紙
  • コロサイの信徒への手紙
  • フィレモンへの手紙
 牧会書簡
 教会の指導者であるテモテとテトスに宛てて、教会の運営や指導者の資質について教えた手紙です。
  • テモテへの手紙一
  • テモテへの手紙二
  • テトスへの手紙
 初期書簡
 パウロが初期の伝道時代に書いた手紙です。
  • テサロニケの信徒への手紙一
  • テサロニケの信徒への手紙二

 これらがパウロによって書かれたとされる「偽情報」が散りばめられた13通の手紙からなる「パウロ書簡」ですが、学術的な研究においては、パウロ自身が直接書いたとされる「真正パウロ書簡」7通と、パウロの死後に弟子たちによって彼の思想を継承して書かれたとされる「疑似パウロ書簡」(第二パウロ書簡6通)に分けられることがあります。

 これらの手紙は、パウロ自身が宣教によって設立した各地の教会(コリント、エフェソなど)のほかに協力者宛てにも書かれていますが、当時の教会が抱えていた諸々の問題の解決策や異教徒社会での生活におけるアドバイスなどが記されているようです。

 そして、すべての書簡に共通する中心的なテーマは「イエス・キリストの十字架と復活による人間の救い(信仰義認)」であって、初期キリスト教の神学の基礎が構築された文書として極めて高い歴史的価値を持っています。

 然は然りながら、

 「偽情報」の核となる真の出来事は、十字架でのイエスの死とその後に起こった「復活」という大イベントであって、そこにパウロが企画した「イエス・キリスト計画」と、それを推進する別動隊としての(仮称)「十字架同胞団」の活躍が認められるわけなのです。

 「イエス・キリスト計画」や「十字架同胞団」についての詳しい情報データなどは『ダ・ヴィンチの罠 踊り子』の前後のページを参照してみてください!

toumei-ningen.hatenablog.com

 こうして巻き散らかされた嘘のストーリーは、この「イエス・キリスト計画」の実行から始まった「虚構劇」の副産物であり、それらを架空の物語であると推理したのが、我らがレオナルド・ダ・ヴィンチだったのでした。

 彼がそのように考察し、そのように理解したからこそ、自らの絵画や手稿の中に絶妙なる「罠」を仕組んだものと小生は推察したわけで、あくまでも、これは想像(仮説)の域をでないものです。

 そうは言っても、ひょっとすると、これは立派な『偽情報』の範疇におさまる内容を含んだものなのかもしれません。

 次回では、クリスチャンと呼ばれる人々が度々おこなう「告解」というなんとも不思議で欺瞞に満ちた行為について、考察してみようかとも考えていますが、

 果たして、どうなるものか?

 それもまた保証の限りではありませんが ( ^ω^)・・・

  むむむ! 「告解」➡「懺悔部屋」で告る例のアレか  
       

 
    この男は、 まったく、何も、わかってませんな!?
懺悔(ざんげ)と混同されるけど別物よね?   
         
    
懺悔は仏教の概念で、キリスト教の正式用語は告解じゃな! 

         
 「キリスト教」って三位一体で、告解はその教義に基づく「秘跡」なんでしょ!?
そうじゃ、これはカトリックの公式な教理じゃ!  

 ええっ、      
         
    
カテキズム(教理問答)にも、しっかり位置づけられているわよね!     
         
      ドラマや映画のシーンでも、よく見かけるはずじゃよ!?
         
 キリストが教会に与えた罪の赦しの務めを具体的に実行する場所じゃからのぅ  

   そうやねんな!
            
 
信心深いカトリックでは月一回が決まりらしい!?   う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

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               マグダラのマリア  
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       『時間との戦いPART-2』 kazuki1026.hatenablog.com 
     

    
ダ・ヴィンチの推理は続きます。 
  

巧妙化するフェイク情報のリスクをLLM×Agentic AIで自動分析 偽 ...
         「AI技術の氾濫」イメージ  jpn.nec.com

 近年の生成AIの急速な進化によって、誰でも気軽に精巧な画像表現や映像表現が可能になりました。

 しかしながら、その一方において、情報操作のために任意の人物のフェイク画像や映像を流布させたり、閲覧数稼ぎのためのデマで人々を混乱させたりするような困った問題も多数発生しています。

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    「情報」の信憑性のバランスイメージ kazuki1026.hatenablog.com 

     ★ 果たして、いったいパウロは、シロなのか、クロなのか?

  ミス・カフェオーレ | ☆Pure Life☆ ~おいしく、楽しく、健康に。~ 
            ミス・カフェオーレ ameblo.jp
      それとも、「白黒つけないカフェオーレ♪」 なのか!?


    「ホントは、どうなんでしょうね?」 yuri-kurashi.hatenablog.com 

ダ・ヴィンチの罠 片務性

見出し画像
           「ローマの軛(くびき)」 note.com
         画像
       「ローマの軛と片務的な政(まつりごと)」 note.com  

     『アテナイの学堂」ラファエロ・サンティ画 ja.wikipedia.org


  世界雑学ノート「万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ」world-note.com   

   ★『ダ・ヴィンチの罠 真贋力』からのつづきです!

toumei-ningen.hatenablog.com

 

 『創世記』22章に出てくる『神がアブラハムを試したとされる「イサクの生け贄事件」(日本語では「イサクの燔祭」「イサク奉献」とも呼ばれる)出来事』に関して物申せば、イサクはPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患ってしまったとしても何の不思議もないと言えます! 

PTSD symbol with a brain outline isolated on white background. Anxiety disorder symbol conceptual design
      「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)daag.shoreline.edu  

 このエピソードを知らない人もいるかもしれないので、簡単に概略を紹介すると、

 ● 神はアブラハムに「あなたの子、ひとり子イサクをモリヤの山で燔祭としてささげよ」と命じます。

 ● アブラハムは朝早く出発し、イサクと若者たちと共に山へと向かいます。

 ● 山頂で祭壇を築き、イサクを縛って載せ、刃物を振り上げた瞬間、主の使いが「その子に手を下すな」と制止します。

 ● その代わりとして、角(つの)をやぶに引っかけた雄羊が与えられ、その羊がイサクの代わりに捧げられます。

 この出来事を通して、神はアブラハムの信仰を「試みた」と聖書は語るわけですが、概略とは言え、あまりにも簡単に説明し過ぎましたので、もう少しだけ詳しい内容について「AI」に聞いてみることにしました。

 

   ★ AI による概要
 
     聖書や神話を知らんと理解できんアートが多いのでエピソード別に ...  
 イサクの燔祭(はんさい)は、旧約聖書の『創世記』22章に記されている、信仰の父アブラハムに課せられた最大の試練の物語です。
 神がアブラハムに対し、年老いてから授かった最愛のひとり息子イサクを、生け贄(燔祭)として捧げるよう命じたという内容です。
 この物語の展開と結末は以下の通りです。
  • 神の命令: 神はアブラハムの信仰を試すため、「あなたの愛するひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭(焼き尽くす生け贄)として捧げよ」と命じました。
  • モリヤの山へ: アブラハムは神の言葉に従い、イサクとふたりの若者を連れて旅立ちました。山に着くと、イサクに薪を背負わせ、自らは火と刃物を手に山を登りました。イサクが「生け贄の羊はどこですか?」と尋ねると、アブラハムは「神が備えてくださる」と答えました。
  • 試練の成就と救済: アブラハムは祭壇を築き、イサクを縛ってその上に寝かせました。そしてナイフを振り上げ、まさに息子を屠ろうとしたその瞬間、天から神の使い(御使い)が呼び止めました。「その子に手を下してはならない。あなたが神を畏れる者であることがわかったからだ」。
  • 代わりの羊: アブラハムが辺りを見ると、角を藪に引っ掛けた一頭の雄羊がいました。彼はその羊をイサクの代わりに神への燔祭として捧げました。
 この絶対的な服従と神への信頼を示したアブラハムに対し、神は彼を祝福し、子孫が大空の星のように繁栄するという契約を結びました。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教において、究極の信仰の象徴として極めて重要視されているエピソードです。
 以上が「AI」による回答でした。

 さて、この逸話において小生が感じたことは、

 少なくとも、イサクの心になかに父アブラハムに対して精神的な拒否反応や心因的に拒絶する兆候が表われないものなのかと心配になってしまったのです。

 いや、むしろ本音を言ってしまえば、「PTSD」などを発症しない方がおかしいと思われるわけですよね!
PTSD psychiatric treatment in san tan valley az
      「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)grandcanyonpsych.com

 ちなみに、「PTSD」とは「心的外傷後ストレス障害」といって、命の危険を感じるような強いショック体験や、とてもつらい出来事の後にあらわれる心の障害を言います。

PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは?原因、症状、治療、PTSDに ...
        「PTSD」(心的外傷後ストレス障害) h-navi.jp

 ところで、

 この物語は歴史的に、強い批判や問いかけの対象になってきました。

 まず、言えることは神が子どもの犠牲を強いるかたちで命じることの「倫理性」が問われたことです。

 続いて、「アブラハムの従順さをどのように考えるか?」が、問題となりました。

 果たして、それを「信仰」と呼べるのか?、それとも、ただの「盲従」なのか? が、問われたわけです。

 そして、冒頭に明記した「イサクの心情やトラウマをどう考えるか?」ですね!

 哲学や神学では、この物語を通して「信仰と道徳の衝突」「神の命令と人間の良心」などといったテーマでたびたび議論されてきたようですが、現代の多くの解説では、歴史的事実というよりも「物語が伝えようとしていること」に焦点を当てて読まれることが多いようです。

 たとえば、

 「理解不能な命令」にどう向き合うかを通して、信仰の成熟や葛藤を描く物語としてとか、絶対だと思っていた「自己のよりどころ」(イサクの将来や一族の長としての責任や責務)さえ手放す覚悟を問う物語と言ったような読み方になるのでしょうか?

               

 さて、これを「契約」だとするのであれば、理想的には片務的(片務性)ではなく、双務的(双務性)でなければなりませんが、この行為が「アブラハム契約」における前提条件になっていたとすると、それは限りなく片務的(片務性)あると言わざるを得ません。

 「アブラハム契約」自体は、神がアブラハムと結んだ無条件の契約であり、神の側から一方的に結ばれた約束であって、人間の不信仰や失敗によって破棄されることはない片面(片務的・一方的)契約とされています。

 そうであるにもかかわらず、神は理不尽にもアブラハムに生け贄としてイサクを要求したのです。

 たとえそれが神の命令であり、神が我々人間をつくった第一原因者(動かすもの原因)と動かされるもの(結果)の関係において、他によって動かされることがなく、他を動かす「不動の第一動者」をいい、これを神であるとする)であったとしても ・・・ です。

 しかも、しかも、ですよ!

 同じように、族長時代からモーセの時代にかけても、性懲りもなく『ヨブ記』に登場する主人公のヨブに対して、彼の信仰の度合いや深さを確認するかのように悪魔(サタン)にそれを試させているのですから、もはや「何をかいわんや」なわけです!

              

 これらの逸話は『旧約聖書』に記載されている物語ですが、いずれにしても、間尺に合わないのが『聖書』という代物であって、特にそれが顕著なのが、四福音書をはじめ、使徒言行録、パウロ書簡、ヨハネの黙示録などの『新約聖書』27巻でしょうね!?

 とにかくも、『聖書』にはウソが多く、信頼に足る書物ではありませんが、その影響力だけは半端なく強大であり、特に紀元後の人類は常に『聖書』の文言に右往左往させられてきたのです。

 そして、現代はまさに「AI」を駆使した『偽情報』全盛の時代に突入しています。

 次回では、そんな『偽情報』における混乱の顛末をパウロの主導による救世主を創作するための「イエス・キリスト計画」と絡めて考察してみたいと考えています。

  むむむ! 「救世主(メシア)」➡「神」の創造ですか?  
       

 
    この男は、 まったく、何も、わかってませんな!?
パウロによる遠大なる神の創造計画だったの?   
         
     
いや、自己顕示欲や支配欲ではない宗教的な野望じゃな! 

         
  でも、「キリスト教」って、イエスを神として証しする宗教でしょ!?
そうじゃよ、「福音を世界に広げる」野望じゃ?  

 ええっ、      
         
         それには異邦人への布教が欠かせないわね!      
         
       だからこそ、サウロからパウロに改名したんじゃよ!?
         
  過去において、迫害者であったという負い目を「異邦人伝道」に利用したんじゃ!

   なんでやねん!
            
 
迫害者サウロから回心し、各地に共同体をつくった!  う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

           「核の冬の証拠はない」 gigazine.net
   … to be continued !!

       「聖書は『沈黙』を続ける神の言葉なのか?」 www.jw.org   

      「イエス・キリスト計画」の行方 teatime365.hatenablog.com 
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        『時間との戦いPART-1』 kazuki1026.hatenablog.com

   「夜空の天の川を背景に岩の上に立つ人」(Getty Images) forbesjapan.com

      宇宙に存在するのは、地球人だけなのだろうか(Getty Images)forbesjapan.com 

     コンタクト (Credit- Kendall Hoopes from Pexels)sorae.info 

        「なんだかなぁ!」 gigazine.net & spaceshipearth.jp 
          
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ダ・ヴィンチの推理は続きます。 
 


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   『イサクの犠牲』レンブラント・ファン・レイン ja.wikipedia.org 

 この「イサクの燔祭」「イサク奉献」とも呼ばれる出来事を「十字架の犠牲」によるイエスの死の伏線であるとする向きもあるようですが、小生に言わせれば、無理強いもいいところの只の言いがかりにすぎません。

 伏線である根拠として、「アブラハムのひとり子イサク」と「神のひとり子イエス」との類似性が指摘されますが、それならば、女奴隷のハガルとの間に生まれたイシュマエル(アラブ人の祖とされる)はどこに行ってしまったのでしょうか!?

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    「片務」ではない「双務」のイメージ kazuki1026.hatenablog.com 

 彼はアブラハムの子ども(長男)ではないとでも言うつもりなのでしょうか!?  

 どう考えても「こじつけ」にしか聞こえないのですがねぇ( ^ω^)・・・?

ダ・ヴィンチの罠 真贋力

真贋力 ―― 心音聴覚がひらく、響きのチカラ!|風間裕継
          「真贋力」のイメージ mbp-japan.com 

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       生と死と復活のはざま kazuki1026.hatenablog.com     

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   ★『ダ・ヴィンチの罠 亜麻布』からのつづきです!

toumei-ningen.hatenablog.com

 

 最新の情報によると、「トリノの聖骸布」は限りなく本物である方向に近づいてきている状況にあって、その種の動画も数多く出回っているようなのですが、小生のアプローチ(取り組み方)は依然として贋作(傑出した創作物)としての対象でしかありません。

 然は、然りながら、

 この件に関するバチカンの立場や見解は比較的はっきりとしているようです。

 バチカン(ローマ教皇庁)では、「トリノの聖骸布」の真贋について公式に最終判断を下していません。

 カトリック系や一般メディアの解説でも、バチカンは真偽を断定していないと繰り返し説明されています。

 教会は教会で、この亜麻布を「イエスの埋葬布だと信じる人もいる重要な聖遺物候補」として尊重しますが、「確実にキリストの遺体を包んだ布である」とは宣言していません。

 「トリノの聖骸布」はバチカンの所有物あり、トリノ教区が管理していますが、歴代の教皇は、次のような言い方で信心を促してきました。

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          「聖骸布キリストの顔」 karapaia.com

 教皇ベネディクト16世は、2010年のトリノ訪問時に、聖骸布を「十字架につけられた人の血で書かれたような聖なるイコン」と呼び、『福音書』が語るイエスの遺体の包布と「完全に一致する」と語りましたが、科学的真贋論争には踏み込みませんでした。

 こうした表現からもわかるように、「本物である」という信仰を尊重しつつも、教義として「本物」とは定義してはいないのです。

 カトリックの解説サイトなどでも、「教会は聖骸布を信心を助ける『イコン』として認めるが、イエスの埋葬布であると教義的に確定してはいない」という趣旨の言葉で繰り返し説明されています。

 科学的には、1988年の炭素年代測定で「中世の布」とする結果が出た一方で、その後の研究データから「偽造とは断定できない」「画像は現在の技術でも再現できない」とする報告もあり、こうした賛否両論が続くなか、バチカンは「どちらと決める」立場を取らずに、信心の対象としての価値と学術研究の自由の両府を尊重する方向で管理しているというのが、実情のようです。

 と、ここまでが一般的かつ常識的な見方ですが、『ダ・ヴィンチの罠』での考察は一味、違います。

 簡単に言ってしまえば、バチカンは、パラドックスのドツボに嵌まるのをいたく警戒しているのです。

 「どういうことなのか?」と言うと、

 「トリノの聖骸布」の真贋についてのバチカンの見解は、おそらく「本物」であると理解していることでしょう。

 ただし、その立場はきわめて微妙です!

 『新約聖書』のなかでも、イエスの埋葬の記事は『福音書』のすべてに記載があり、とても重要な場面であることがわかりますよね。

 四つの『福音書』すべてに登場するのはアリマタヤのヨセフだけで、言及される人物の名前や人数、香料や埋葬布の扱い、番兵や封印の有無などは『福音書』によってそれぞれに違っています。

 『共観福音書』では、複数の女性たちが埋葬の様子や墓の位置などを見届けていたことを強調したうえで、安息日が明けたのち、彼女たちは再び遺体に香油を塗るために墓へと向かいますが、そこで展開される筋書きは「空っぽの墓」と「復活」の証言へと見事に物語がつながっていくわけです。

 『福音書』に共通している「訴求ポイント」は次の二つです。

 ① イエスは実際に死に、正式に墓に葬られたこと。

 ② その墓がのちに「空の墓」として証言されること。

 要するに、この二つはどうしても必要不可欠な事柄だったわけですね!


           「空っぽの墓」 www.kirishin.com

 それでは、ここで、バチカンが忌避するパラドックスについての考察に一旦、話を戻すことにしましょう。

 仮に、「トリノの聖骸布」を「本物」と認めてしまうと、キリスト教の根幹にある『福音書』の記述との矛盾(主にマタイとヨハネの『福音書』との齟齬)が露呈してしまうのです。

 たとえば、

 『マタイの福音書』27章57-66節では、

 アリマタヤのヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には番兵を置き、大きな石に封印をしておいて立ち去った。

 『マルコの福音書』15章42-47節では、

 アリマタヤのヨセフが亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って作った墓に納めた。

 『ルカの福音書』23章50-56節では、 

 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩で掘った墓の中に納めた。

 『ヨハネの福音書』19章38-42節では、

 彼ら(アリマタヤのヨセフとニコデモ)はイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。

 つまり、『四福音書』に共通する記述では、亜麻布で包んだ(巻いた)ということになっていますよね!?

 しかし、「トリノの聖骸布」は、亜麻布で包んだ(くるんだ)というよりは、覆った、あるいは、被せたと表現されるべきものであって、この辺りの指摘(ツッコミ)を回避したい旨の対応であることが想像されるわけなのです。

 しかも、『ヨハネの福音書』では、アリマタヤのヨセフに加えて、ニコデモが登場します。

 ニコデモが没薬と沈香を大量に持ってきて、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって亜麻布と香料で遺体を巻いたと記しています。

 そして、十字架につけられた場所の近くに新しい墓があり、安息日の準備の日であったため、そこに急いで葬ったと説明していて、イエスが本当に死に、その遺体を墓に葬ったことを強調しているのです。

 『マタイの福音書』27章62-66節では、祭司長たちとファリサイ派がピラトに願い出て、墓に番兵を置き、大きな石に封印をします。

 その理由(わけ)は、いわゆる「遺体盗難説」をあらかじめ封じるためで、ローマの兵士による見張りと封印が施されたにもかかわらず、墓は空っぽであったというストーリーを展開させるための布石なのです。

 畢竟、マタイは「弟子たちが盗んだわけでもなく、番兵と封印がなされ、公的権力を使って厳重に監視していた墓が空になった」ことで「復活」の事実性を弁証的に示しているのです。

 パウロも「キリスト(イエス)は死に、(墓に)葬られ、三日後によみがえった」と繰り返し要約しており、埋葬は「死」が現実であったことを示す重要なファクターであったと理解することができます。

 遺体が確かに墓に納められたという事実が、のちの「空っぽの墓」=「復活」の証言の前提になっているわけですね。

     burialburial
     「イエスの埋葬」亜麻布に巻かれたイエスの遺体 godarea.net

 繰り返しになりますが『ヨハネの福音書』19章によれば、

 イエスの埋葬は、アリマタヤのヨセフとファリサイ人のニコデモが、ユダヤの埋葬方法にしたがって、遺体を丁寧に洗い、没薬とアロエを混ぜ合わせたものや香料と一緒に亜麻布でグルグルと包み込み(くるみあげ)、岩を掘って造った新しい墓に納め、墓の入り口に大きな丸石をころがして塞ぎ、ローマ兵によって封印が施されました。

「墓の封印」の場面を描いたイラスト。墓の大きな石に赤い封印が施され、前には槍を持った二人のローマ兵が立っている。左側にはピラトに報告する兵士、右側には黒い衣を着た二人のパリサイ人が登場している。中央には「墓の封印|疑いと恐れが交差する夜 マタイの福音書27章62–66節」のタイトル文字が重ねられている。
            墓の封印 arkofgracegallery.com

 しかしながら、イエスの埋葬に際し、その遺体に塗油することができませんでした。

 イエスは安息日が始まる3時間ほど前に死んだので、時間が足りずに身体に油を塗ることが出来ずに不十分なまま葬ったのです。

 マタイやマルコの福音書では、マグダラのマリアと「もう一人のマリア」など数人の女性の弟子たちが、遺体が墓に納められる様子を「向かい側に座って」見守っていたと記されています。

 これらを勘案すると、直接埋葬作業をしたのが「アリマタヤのヨセフとニコデモ」で、その様子を見守り、のちに墓を訪ねたのが「マグダラのマリアたち女性の弟子」ということになります。

 ユダヤの律法では、安息の休みが義務付けられていたために、安息日には葬儀を行うことができません。

 それで、幾人かの女性の弟子たちが安息日が明けたのちにイエスの墓に行って、埋葬のしきたりをまっとうしようとしていたのでした。

              

 さて、今回のタイトルは『ダ・ヴィンチの罠 真贋力』です。

 『真贋力』は辞書に載る一般名詞ではなく、「真贋を見抜く力」という意味で使われる造語的な表現ですが、美術品やブランド品などの世界で、真贋を見極めることを指してよく使われる言葉です。

 真贋は「本物と偽物」という意味ですが、情報の世界では「情報が本物かデマかを見抜く力」という文脈で語られることが多いようです。 

 要するに『真贋力』とは、本物と偽物や真実とデマなどを見抜く目利きのような力というイメージですかねぇ!?

 果たして、小生にそのような物事の本質を見極める『真贋力』が備わっているかどうかはわかりませんが、ダ・ヴィンチと同様に『新約聖書』、それも「十字架上での死」に対する解釈とその後の「復活」にまつわる記事には眉に唾をつけて読んでいます。

          
             サウロ(パウロ)の肖像

 だからこそ、ペテン師パウロが主導する「イエス・キリスト計画」とその実行部隊としての(仮称)「十字架同胞団」の実在を想定してみたわけで、『新約聖書』における「信憑性」のほとんどすべては、パウロの存在とその言動にかかっていると言っても過言ではなく、たとえ、彼の死後になって作成・編纂された『新約聖書』であったとしても「キリスト教」の教義・経典というよりは、やはり、「パウロ教」のそれであるとする方が正しいように思われてならないのですが ( ^ω^)・・・

  むむむ! 「キリスト教」ではなく、「パウロ教」ですか?  
       

 
     この男は、 まったく、何も、わかってませんな!
パウロがいなければキリスト教はなかったの?   
         
 
あったにはあったが今ほど盛んではなく、しがないユダヤ教の一派じゃろうな! 

         
  でも、「キリスト教」って、イエスを神として証しする宗教でしょ!?
そうじゃが、異邦人への布教はどうだったか?  

 ええっ、      
         
   「ユダヤ教ナザレ派」、若しくは「イエス派」が、精々だったじゃろ!      
         
     それじゃあ!クリスチャンって呼び名もなかったってこと!?
         
      それは何とも言えんが、象徴としての十字架はあやしい! 

   ホンマかいな!
            
 
Christianus(クリスティアヌス)はどうなるわけ!?  う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

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        『時間との戦いPART-1』 kazuki1026.hatenablog.com

   「夜空の天の川を背景に岩の上に立つ人」(Getty Images) forbesjapan.com

      宇宙に存在するのは、地球人だけなのだろうか(Getty Images)forbesjapan.com 

     コンタクト (Credit- Kendall Hoopes from Pexels)sorae.info 

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ダ・ヴィンチの罠 亜麻布

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     「イエスの埋葬」亜麻布に巻かれたイエスの遺体 godarea.net 

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   ★『ダ・ヴィンチの罠 逃避行』からのつづきです!

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  今から3年ほど前のことでした。

 ひょっとすると「トリノの聖骸布」は、レオナルド・ダ・ヴィンチの手による作品なのかもしれないという趣旨の記事を『ダ・ヴィンチの罠』に対する考察の一形態として「gooブログ」に投稿しました。

 それは詐欺的な芸術作品というよりも「罠」への伏線的な意味合いの強い内容の記事でした。

             

 90年代初頭のTV番組や調査報告等でも、「聖骸布」の放射性炭素年代測定の結果は、1260年から1390年頃のもの(布)であるとの鑑定によって「トリノの聖骸布」は「中世の偽造品」ということになっていました。

 そうなると、もう、この鑑定結果に異議を唱えるのは無意味(無駄な抵抗)であって「トリノの聖骸布」が「中世の偽造品」だとしたら、いったい誰がつくったのだろう?

 そんな疑問に対し一定の答えを出すことの方がむしろ意義のある事柄のように思っていた頃のことでした。

 そうです。 3年前のその日、小生は「トリノの聖骸布」に関する証拠などについて、あれやこれやと考察に耽っていたのです。

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 1978年にイタリアのトリノで「聖骸布」を調査する特権を与えられた科学チーム(STURP)に所属する数少ない著名な専門家のひとりであった彼が「聖骸布」について明かしたことは、本当に驚くべきことでした。

 彼に対する認知的不協和は消え始めていたけど、それでも、まだ疑問符が燻っていたのです。

 このテーマを深く掘り下げていくうちに、決定的な証拠はないものの、なんとなく真実が見えてきたようなそんな気がしていたところだったのです。

 一番大変だったのは、科学的な思惑と誤った研究に対するプライド、そして間違った物語を維持するための不誠実さを払拭することでした。


道を選んでいる男性 イラスト
      「取捨選択」と「払拭」のイメージ domani.shogakukan.co.jp

 およそ3年間、約15万時間をかけて、「トリノの聖骸布」は、ロスアラモス国立科学研究所、米空軍兵器研究所、ブルックス写真研究所、原子力技術公社、サンディア研究所、ジェット推進研究所、そして複数の大学などから、多くの医師、科学者、検死官、その他の専門家によって調査されてきたのです。

 その結果、これらの専門家のあいだでは、中世の芸術家や金で雇われた共謀者による詐欺的な傑作品などではないという意見で一致していたようで、むしろ、それは本物の人間が残したイメージに相違ないとする方向に傾いていたのでした。

 考古学においては、10個の証拠があって、そのうちのひとつが炭素年代測定であった場合に、他の9個の証拠と矛盾する結果が認められる時には、予期せぬ汚染のために炭素年代測定を不正確として切り捨てることに何の未練も躊躇も起こり得ません。

 「トリノの聖骸布」は、X線画像、3Dホログラフィック画像、写真で使用されるネガ画像を組み合わせたような性質を示しています。

 布に描かれているのは『新約聖書』の記述(福音書の内容)と一致するもので、非常に残酷に扱われた果ての刺し傷、血痕、いばらの冠をつけた十字架に架けられた男の姿です。

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          「聖骸布キリストの顔」 karapaia.com

 一部の懐疑論者たちが言うように、偽物や芸術的な傑作作品ではないことが証明されたのでしょうか!?

 「聖骸布」の背後にひそむ真実や科学は、実に驚嘆すべきものであるのに、ほとんどの人はまだ偽物だと思っているんだよね!

 その最大の理由は、使用された炭素年代測定技術に欠陥があったからではなく、鑑定(サンプリング)用に採取された布地が、1532年のシャンベリの火災での裏あての補修部分の布だったとは、なんということ(失態)だろうか!?

 あれから、すでに3年が経過しようとしています。

 「トリノの聖骸布」には血痕が至る所に散乱しており、その血は人間のものであることが証明され、血液型はAB型であることが示されています。

 通常、血液は時間の経過とともに酸化して茶色くなり黒ずんでくるのですが、「聖骸布」の血痕は赤色のままです。

 人が長時間にわたって拷問されると、肝臓がビリルビンと呼ばれる物質を非常に高濃度で血液に送り始めるのだそうですが ・・・

 そこで、

 長い年月が経過しているのに「血痕がいまだに赤い」という点は、多くの研究者が不思議だと感じていて、いくつかの説明が提案されているようですので、ちょっとだけ「AI」に質問してみることにしました。

🩸 なぜ古い血が赤く見えるのか

 通常、血は時間がたつと酸化して暗褐色や黒っぽく変色します。ところがトリノの聖骸布の血痕は、写真や肉眼観察で赤みが残っていると報告されています。

 この「赤さ」の理由として、主に次のような仮説があります。

🧪 科学的な主な仮説

 ビリベルジン説

 血液中のヘモグロビンが分解されるとビリベルジンやビリルビンという色素になります。
 一部の研究者は、聖骸布の血痕に通常より多いビリベルジンが含まれることで、赤みが比較的長く残りうると考えています。これは激しい外傷やショック死などで血液中の代謝が変化した可能性と関連づけられています。

 環境・保存状態の影響

 布が長期間にわたり比較的安定した環境に置かれ、光や湿度、微生物の影響が限定的だったことで、血の色素の分解が遅れ、赤みが保たれたのではないかという見方もあります。

 顔料・色材が補強している可能性

 一部の分析では、赤いシミから人間の血に加えて赤い顔料も検出されており、「元の血痕の上から絵具などで赤色が補強されているのではないか」という説もあります。これによれば、血だけでなく顔料の赤色が現在の見た目に影響している可能性があります。

⚖️ 結論としてのまとめ

  • 聖骸布の血痕が赤く見える理由については、
    ビリベルジンなどの血液成分、保存環境、顔料による補強など、複数の要因が組み合わさっている可能性が高いと考えられています。
  • ただし、どれが決定的な原因かについては、現在も研究者の間で一致した結論は出ていません。

    以上が、「AI」による回答でした
  •  
  •  しかるに、この血痕が赤いままであることが、「トリノの聖骸布」の信憑性を疑わせる要因のひとつだったわけですが、こうなるとイエスが十字架刑に処されるまでの一連の扱い(激しい鞭打ち)と、合致することになります。
  •  イエスは殴られ、拷問され、脱水状態になり、十字架にかけられ、ショック状態に陥っていたのかもしれません。
  •  彼の死の直前には、血中に非常に高濃度のビリベルジンやビリルビンといった色素が充満していた事実を否定することはできませんよね!
  •  
  •  それはそうと、「聖骸布」が意図的につくられたものだとして、これをつくれる人間はレオナルド・ダ・ヴィンチしか考えられなかったわけですが、人間に限定しなければ、その可能性は格段に広がります。
  •  
  •  「トリノの聖骸布」の画像は、3D画像のように、布に地形的にエンコード(符号化)されていました。
  •  それは古いカメラのプラスチック・フィルムにあるような男性の完璧なるネガ画像でした。
  •  1898年に「聖骸布」の最初の写真が公開されましたが、それはネガ画像の特性を示していて、反転させると、拷問され殺された男のより鮮明で明確な画像が現われ、光と影が写真の焼き付けのように反転していたのです。
  •  しかも、興味深いことに、これは完全な直接接触画像ではありませんでした。
  •  画像の特定の部分は最大4㎝の距離から間接的につくられていたのです。
  •  
  •  その特徴を以下に列挙してみましょう!
  •  ①、直接接触画像は暗く、距離符号化画像は明るい。
  •  ②、体と聖骸布の距離が離れるにつれて、画像はうすくなる。
  •  ③、画像は布の最上部の繊維の半分しか貫通していない。
  •  
  •  ★ すべての繊維を貫通しているのは血液だけで、この距離符号化情報が「聖骸布」に3次元的な外観を与えているのです。
  •  
  •  ここで小生は咆哮し、訴えます!
    アニメ『キングダム』の画像
            「咆哮」キングダムより topics.smt.docomo.ne.jp

 なぜ、完璧な人の像を写し出してる聖骸布は世界中でこれだけしかないのか?

 なぜ、現在のテクノロジーを駆使しても「聖骸布」を再現することができないのか?

 いったい誰が、そして何がこれをつくり出したというのでしょうか?

 それは、復活の瞬間に体の中から発せられた短くも強烈なエネルギーのバーストのようなもので、それが彼の体を覆っていた埋葬布の内側にあたり、布のセルロース繊維の化学構造を変化させ、今日我々が目にしている画像を与えるようなイメージを刻んだとでもいうのでしょうか?

 だとしたなら、それは調和的な共鳴ともいうべき事象や何らかのかたちで、この男のDNAと相互作用し、彼を再び生き返らせた外部からの波動(振動周波数)だったのでしょうか?

 正直、小生にはわからないことばかりです!

 なぜなら、この画像をつくり出したメカニズムは、ある種の奇跡か、我々が理解することさえできない技術でなければならないからです。

 「聖骸布」は、織りに際して混合繊維が使用されていないため、ユダヤ法のコーシャです。

   
        新発見のキリスト時代の埋葬布 natgeo.nikkeibp.co.jp

 ユダヤの慣習では、衣服に繊維を混ぜることは禁じられていて(レビ記19章19節)使用されている素材は100%亜麻なのです。

 「聖骸布」で亜麻でない部分は、左下隅にあって、この隅は、1532年の火災でほぼ破壊された後に縫い付けられたパッチの部分です。

 その結果、まさにこの場所で放射性炭素測定の試験を行うことにしたなんて、なんという愚かしい出来事なのでしょうか?

 それとも、なんて都合のいい選択をしたのでしょうか!?

 まるで何者かに操作され誘導されているように感じているのは、きっと小生だけではないのでしょうね!

  むむむ! 我々は何者かに操作され誘導されているのか?  
       

 
     この男は、 まったく、何も、わかってませんな!
人類創生以来、ずぅ~とそうだったのにね   
        
     
誰にも悟られないよう万全を尽くしておったからのぅ! 

        
     そうね、でも、イエスの登場でバレて来ちゃったけど、
それを言うなら、詐欺師のパウロの方じゃよ!  
        
  
     ないことばかりを吹聴しまくっていたんじゃからのぅ!          

 ええっ、      
         
     「サウロの回心」がその典型で、「目から鱗が落ちる」のよね!      
         
     そうじゃのぅ!奴は、野心の塊でユダも丸め込まれたんじゃ!
         
       稀代のペテン師が「キリスト教」をつくったわけね! 

   ホンマかいな!
            
   
キリスト教というよりパウロ教だよ!         う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

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ダ・ヴィンチの推理はまだまだ続きます。 
 


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ダ・ヴィンチの罠 逃避行


    「エジプトへの逃避」ムリーリョ作 1647‐50年 mementmori-art.com
   (おじいさんではないイケメンでダンディーなヨセフを選んでみました!)

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     『アテナイの学堂」ラファエロ・サンティ画 ja.wikipedia.org


  世界雑学ノート「万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ」world-note.com   

   ★『ダ・ヴィンチの罠 連続性』からのつづきです!

toumei-ningen.hatenablog.com

 

 「エジプトへの逃避行」は、『新約聖書』のなかでも『マタイの福音書』2章13〜23節にだけ登場する出来事です。

 ヘロデ大王がベツレヘム周辺の幼児を殺そうとしていると天使が夢で告げたために、養父のヨセフがマリアと幼子イエスを連れてエジプトへと逃げ、ヘロデ大王が死んだ後にイスラエルへ戻ってくる、というプロット(筋書き)ですが、ルカの福音書』にも、他の『福音書』のどこにも、このエピソードが出てこないため、古くから「なぜマタイだけなのか?」という点が議論の的になっていました。

 兎にも角にも「エジプトへの逃避行」は、やたらと物語性のあるストーリーですので、ちょっとそれ風にアレンジしてみましょう!

 ある日、ヘロデ大王は昔から預言されていたユダヤの新王となる人物がベツレヘムで誕生したことを東方からやってきた3人の賢者によって知ることになります。

 玉座を失いたくないヘロデ大王は、新王となる者を殺そうとベツレヘム近郊(周辺)の町に住む2歳以下のすべての男児を殺すよう命じました。

 何の罪もない赤子たちは母親の手から奪われ、無惨にも殺されてしまったのです。

  
    『幼児虐殺』ピーテル・パウル・ルーベンス 1611-1612年 ja.wikipedia.org

 この事件が起こる少し前のことでした。  ベツレヘムに滞在していたイエスの養父ヨセフは天使の夢を見ます。

 天使は「イエスとマリアを連れてエジプトへと逃げなさい! ヘロデ大王がイエスを殺めようとしています。 私が知らせるまでそこにいるのですよ!」と言いました。

   
          『エジプトへの逃避行』カルロ・マラッタ

 ヨセフは慌てて二人を起こし、急いで夜中にエジプトへと出発しました。

 彼らはヘロデ大王が亡くなるまでエジプトの地に滞在していたのでした。

 言い伝えによると、ヘロデ大王は70歳の時に恐ろしい病に侵され、悶え死んだとされています。

 すると、再びヨセフの夢のなかに天使が現われ、「ベツレヘムにお帰りなさい」と伝えました。

 こうして家族三人はユダヤへと向かいますが、ベツレヘムは危険だったので元居た場所のナザレへと帰ったのでした。

 小生は、このヘロデ大王が起こしたとされている「幼児虐殺」事件は眉唾物だと考えています。


       二枚目の『幼児虐殺』ピーテル・パウル・ルーベンス ja.wikipedia.org

 その理由(傍証)として、当時、ベツレヘムの近郊にあったエイン・カリムという町にイエスより半年ほど早く生まれた洗礼者ヨハネ(2歳以下だったと思われる)が暮らしていたからです。

 『新約聖書』によると洗礼者ヨハネはユダ地方の「山里」、つまりエルサレム近郊の山地の町で生まれたとされています。

 『ルカの福音書』では、父ザカリアが「ユダの山里にある町」に住んでいたとだけ記されていて、具体的な町名は書かれていませんが、伝承ではエイン・カリムなどが候補とされています。

 ちなみに、

 エイン・カリム(Ein Karem ➡ アイン・カレム)は、現在のエルサレム西部の郊外にある村で、エルサレム中心部からは約8キロほど西に位置します。

 一方、ベツレヘムはエルサレムの南約10キロにある町とされています。

 この二つを直線距離で結ぶと、エイン・カリムとベツレヘムの距離は、おおよそ15〜20キロ前後と見てよいと考えられます。

 聖書本文としては「ユダの山里の町」までしか記載されておらず、詳細は分かりませんが、「幼児虐殺事件」が事実であれば、洗礼者ヨハネの生い立ちのどこかで触れられていてもおかしくはなく、一切の言及がないことは、むしろ不思議であり奇妙に思われるわけです。

 だからということではないのでしょうが、歴史学・聖書学の主流的な見方は次のような、やや慎重な立場をとっているようです。

              

 ● ヨセフ・マリア・イエスという家族が、ガリラヤ地方で生活していたこと自体は、多くの研究者が「かなりの確度で事実らしい」と見ているようです。

 🔴 ただし「ヘロデの幼児虐殺」とそれに伴う「エジプト逃避」の部分は、直接裏づける同時代の資料が『新約聖書』以外には存在しないのです。

 🔵 そのため、マタイの物語がどこまで具体的な歴史的出来事を反映しているかについては、「史実を含みつつ神学的に構成された物語」と見る研究者と、「多くが象徴的な創作」とみなす研究者の両方に分かれるようです。

  •  もちろん、クリスチャンのほとんどはマタイの物語を盲目的に信じているようですが、マタイがこの物語の中で『旧約聖書』の「ホセア書」11章1節にある『エジプトからわたしはわが子を呼び出した』」を引用しており、イエスの生涯を『旧約聖書』の預言成就として描くために構成した面があると広く考えられています。

 小生自身も『マタイの福音書』は、誕生物語全体を通して『旧約聖書』の成就を強調する書き方をしていると考えています。

 「エジプト逃避」の場面で、マタイは『ホセア書』11章1節の「エジプトからわたしはわが子を呼び出した」を引用し、「これは預言の成就だ」と説明する以外にも、ヘロデの「幼児虐殺」を『エレミヤ書』31章15節の「ラマで声が聞こえる...ラケルがその子らのゆえに泣いている」と無理やりに結びつけていると思われてなりません。

 キリスト教の伝統的な信仰の立場から言うと、教会の多くは、「エジプト逃避」を実際に起こった出来事として受け取り、そのなかに神の導きや保護を読み取っているようですし、カトリックなどの解説でも、史実性を特に疑わず、物語の霊的意味に重心を置いて語られていますよね。

 「歴史性を疑う決定的な理由はない」として比較的肯定的に見る人や誕生物語全体を「神学的物語」として、歴史性については保留する人、もしくは懐疑的に見る人など、多様な立場がありますが、レオナルド・ダ・ヴィンチは明らかに懐疑派の仲間に入るでしょうね。

 要するに、信仰共同体のなかでは「起こった」と受けとめるのが普通なのでしょうが、学問的には「はっきりした証拠がない以上は慎重に扱うべき」というのが現実的であり、より現状に近い実態と言えるでしょう。

  •   エジプトへの逃避 (レンブラント) - Wikipedia
          『エジプトへの逃避』レンブラント ja.wikipedia.org 
  •  
  •  この『エジプトへの逃避行』の「真実性=史実性」については、次の3つのレベルに分けて考えると整理しやすくなるのかもしれません。
  •  
  •  ① 【歴史的事実としての真実性】

  •   他の古代史料からも裏づけられておらず、完全に証明も否定もできない、というのが学問的見地からの結論です。
  •  ② 【文学的・神学的真実性】

     マタイは「イエスこそ出エジプトの民の物語を成就する存在だ」という神学的メッセージを、このエピソードで象徴的に表しています。

  •  したがって、物語としての意味合いはとても大きいと評価されているようです。

     ③ 【信仰的真実性】

    •  信じる人にとっては、か弱い幼子と家族を神が守り導く出来事として、神の真実さを証しする物語と受け取られます。
    •  信仰的なレベルでの「真実性」に限って言えば、史的資料の批判とは別の次元での話になるのかもしれませんね。
  •  その意味からも、マタイはユダヤ人の読者を意識して、『旧約聖書』の成就を示す物語として「エジプトへの逃避」を特に重視したというように考えられるわけなのです。

 クリスチャンが考える「幼児虐殺」事件に関する興味深い動画を見つけたので以下に貼っておきます。 

 youtu.be

 布屋忠次郎、略して布忠こと、坂井信生さんという方が運営している noteブログ 「でもクリ×聖書」第6回に掲載されていた動画です。

 坂井さんはキリスト教の信者(プロテスタント系)なのだそうですが ・・・

  むむむ! ヘロデの「幼児虐殺」は疑わしい出来事なのか?  
       

 
     この男は、 まったく、何も、わかってませんな!
ダ・ヴィンチは、完全に疑ってるわよね   
        
     
洗礼者ヨハネの幼児時代は聖書には書かれておらんからのぅ! 

        
  そうね「この子は一体何になるのだろう」と周りが驚く場面があったけど、
 
それは、名前をめぐる話のあとじゃったな!  
        

      
確か、『ルカの福音書』1章57~66節に出てくるエピソードじゃよ!

 ええっ、      
         
  ヤコブの子孫がイエスで、ヤコブの兄イサウの子孫がイドマヤ人のヘロデよね!      
         
   ヘロデとイエスには奇妙な因縁やめぐり合わせがあるようじゃのぅ!
         
イエスの裁判ではヘロデの息子ヘロデ・アンティパスのところにも回されてきたしね! 

   なんでやねん!
            
  ガリラヤの領主だったからでしょ!          う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

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   「夜空の天の川を背景に岩の上に立つ人」(Getty Images) forbesjapan.com

      宇宙に存在するのは、地球人だけなのだろうか(Getty Images)forbesjapan.com 

     コンタクト (Credit- Kendall Hoopes from Pexels)sorae.info 

        「なんだかなぁ!」 gigazine.net & spaceshipearth.jp 
          
         『最後の晩餐』ヨハネ  『岩窟の聖母』マリア     
               
               マグダラのマリア  
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ダ・ヴィンチの推理はまだまだ続きます。 
 


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ダ・ヴィンチの罠 連続性

第203話|継続性を持たせる「データドリブン化」の仕組み

        「連続性」のイメージ www.salesanalytics.co.jp

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       生と死と復活のはざま kazuki1026.hatenablog.com     

     『アテナイの学堂」ラファエロ・サンティ画 ja.wikipedia.org

  
  世界雑学ノート「万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ」world-note.com               

   ★『ダ・ヴィンチの罠 関係性』からのつづきです!

toumei-ningen.hatenablog.com

 
 レオナルド・ダ・ヴィンチの心情(推理)と我々の理解(考察)を等しく同じにすることが困難(不可能)であることは言うまでもありませんが、

 あらゆる分野に手を伸ばし、常識を打ち破ってきた男が、なにゆえに未来の我々に対して、かくも不可解なる「罠」の数々を提供しているのかを踏まえたうえでの考察に入る前に、彼がどうしてパウロをペテン師(詐欺師)呼ばわりするのか!?について、考えてみたいと思います。

              

 レオナルド・ダ・ヴィンチが『聖書』を、それも特に『新約聖書』の内容に信頼を置いていなかったことは、彼の手稿での文面や絵画に秘められた「謎」の存在からも推測が可能ですが、四福音書における内容の齟齬や使徒言行録(使徒行伝)の史実性への疑問、そして、何よりの要因として考えられるのがパウロ書簡に対する疑義や欺瞞性に彼の「経験の弟子」としてのプライドが許せなかったからではないでしょうか!?

 『新約聖書』のパウロ書簡で最初に目にするのは「ローマ人への手紙ですが、これはパウロが各教会宛に送った手紙の中の最初のものでも、二番目でも、三番目でもありません。

 では、なぜ、『新約聖書』は「ローマ書」を書簡の最初に据えたのでしょう?

 小生が想像するに、これは「執筆された順番」ではなく、内容の重要性や分量などを考慮したうえでトップに配置されたと理解することができますが、多くの研究では、パウロが書いた手紙の中で、「ローマ書」は中期以降に属する手紙であるとされています。

 一般的な推定では、テサロニケやガラテヤ、コリントなどへの手紙が先に書かれ、「ローマ書」は第3回伝道旅行の終わり頃、つまり、AD57~58年頃にコリント付近で書かれたものと説明されています。


      『使徒行伝』世界宣教のはじまり www.newlifeministries.jp

 そのため、各教会宛の手紙の中でも前期ではなく、むしろ後期に属するものですが、「神学的体系が最も明確な手紙」であるという位置づけでパウロ書簡のトップに配置されたと理解することができます。

 しかし、小生の見方は至極シンプルで、単に長い順に並べただけであって、13通の手紙は書かれた年代順ではなく、長さの順序で長いものから短いものへと、文字数の多い順に並べ替えただけのような気がするのです。

 然は然りながら、最も長いものから、最も短いものへと便宜的に並べたと言ってしまうと、如何にも「なげやり」な感じに思われるので、濃厚で意義深い「ローマ人への手紙」が最初に置かれ、短いながらも内容の濃い「フィレモンへの手紙」が最後に置かれているということにしておきたいと思います。

 その「フィレモンへの手紙」は1章のみの非常に短い手紙で、他の多くの書簡が教会全体へ宛てたものであるのに対して、これは主にひとりの人物フィレモンに宛てたきわめて個人的な内容の手紙として知られています。

 背景としては、主人フィレモンの許から逃げた奴隷オネシモが、逃亡先でパウロと出会い、イエス・キリストを信じるようになった後の出来事が描かれています。

フィレモンへの手紙 1:6 (新共同訳) - わたしたちの間でキリスト ...
       「フィレモンへの手紙」1章6節
 www.bible.com

 中心となるテーマは、赦しと和解、そしてキリストのうちにある「兄弟としての関係」で、パウロはオネシモを単なる奴隷としてではなく、「愛する兄弟」として受け入れて欲しいとフィレモンに強く願い出るわけです。

 手紙では次のようなポイントが示されています。

  ① 社会的身分を超えた新しい関係の構築。

  ② 相手を罰する権利よりも、赦しと受け入れを選ぶ態度。

  ③ キリストにある共同体がどのように具体的な人間関係として表れるか。

 「フィレモンへの手紙」は短い分、次のような読み方で味わうことが多いようです。

  ① パウロの丁寧で配慮に満ちた書き方を観測する。

  ② 奴隷制度という厳しい現実の中で、福音がどんな働きをするのかを考える。

  ③ 自分の「赦せない相手」との関係を考え直すキッカケとして読む。

   等々・・・

 さてさて、畢竟ながら、小生の意見としては、

          
           サウロ(パウロ)の肖像

 パウロがAD49年からAD67年頃までのうちのおよそ15年間にわたって執筆した13通の手紙こそが、ダ・ヴィンチをして、彼をペテン師や詐欺師と云わしめることになる元凶であったと思われてならないのです。 

 例えて言えば

 『新約聖書』のように、時系列を無視すると、出来事の『連続性』という意味でのナラティブが完全に失われてしまいます。

 この順番を廃(制御)して、実際に執筆した順にそれらの書簡を読み進めると、まったく新しく力強い群像が浮かび上がってくるのに反して、その真実性にも強い疑いが芽生えてくるのです。

 そこで、パウロが「ガラテヤ人への手紙」で示した憤りから、極寒のローマの牢獄でのほとんど孤独の中で綴った最後の言葉までの虚飾に塗れたペテン師(詐欺師)としての彼の足跡を辿ってみたいと考えます。

       Introduction to Galatians and Chapter 1 // – ガラテヤ人への ...
        「ガラテヤ人のへの手紙」 Paz Church

 連続性(時系列)を追求する旅は、AD48年またはAD49年頃、深く激しい憤りのもとで書かれたひとつの書簡から始まります。

 それが「ガラテヤ人への手紙」です。

 この手紙は4つあるどの『福音書』よりも早く書かれた『新約聖書』の中で最も古い書簡である可能性が高いもので、このテキストの激しく率直なトーンを理解するには彼が何者であったのかを思い出す必要があります。

  
          ステファノの殉教 www.lets-bible.com

 かつて、パウロはキリスト教徒を激しく迫害し、ステファノの石打ちを容認し、ダマスコへの途上で目も眩むような光(復活したイエス・キリスト) によって、劇的に変えられた人物です。

     
       『サウロ(パウロ)の回心』ピエトロ・ダ・コルトーナ

 この手紙を書いた当時の彼は、現在のトルコにあたるガラテヤ地方(そこでは、イコニオム、リストラ、デルベといった都市に教会が設立されていた)への最初の宣教旅行から帰国したばかりの頃でした。

 彼は、リストラでは石を投げつけられ、群衆によって死んだものとみなされ、街の壁の外へ引きずり出されることもありました。

 しかし、彼は立ち上がり、宣教を続けたのです。

 アンティオキアに戻ってまもなくのこと、パウロは衝撃的な知らせを受け取ることになります。

 ユダヤ主義者と呼ばれるユダヤ系クリスチャンの教師たちのグループが、ガラテヤの生まれたばかりのコミュニティ(ここの共同体はパウロ自身が創設したもので信徒たちはかつて異教徒だった者がほとんどであった)に入り込んでいたのです。

 彼らは非ユダヤ人の新改宗者たちに向かって、イエスへの信仰だけでは救いに十分ではないと説き、真のクリスチャンになるには、まずは割礼を受け、律法のあらゆる儀礼的な儀式を採用することが義務であると主張していたのです。

 パウロの答えは『新約聖書』の中で最も熱く爆発的な憤りの手紙となって、第1章から直接怒りを炸裂させています。

 当然のことに、ダ・ヴィンチはカトリック教徒でユダヤ教徒ではありませんが、1章1節にある「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」という一文からして、気に食わなかったのでしょうね! [特に下線部の箇所が( ^ω^)・・・]

 ユダヤ系のクリスチャンの教師たちは、異教徒から改宗したキリスト教徒に対し、ユダヤ教の律法を完全に守るように要求していたようで、割礼、安息日の遵守、モーセの律法の遵守などをめぐって意見が戦われたことが窺えます。

 パウロの言葉から推測すると、ユダヤ教からの改宗者たちはアブラハムを引き合いに出して、契約のしるしとしての割礼の意味を強調したようです。

 さらに、義人ヤコブに従うエルサレムの教会を支持することでパウロの使徒としての正当性に疑義を呈していたことが窺えます。

 「使徒」の呼称に関して言えば、小生も彼の異邦人宣教などのキリスト教における布教の貢献度を考慮してもなお、パウロを使徒と呼ぶことには少なからざる抵抗があるのは、やはり彼の中にペテン師や詐欺師的な要素を見出してしまうからかもしれません。

 ちなみに、

 『新約聖書』全27巻の順番は、福音書(4巻)が最初で、教会の歴史である使徒言行録(使徒行伝)が1巻、その後にパウロ書簡(13巻)、ヘブライ人への手紙(1巻)、公同書簡(7巻)、最後に黙示録(1巻)という並びが一般的な構成です。

 ところで、せっかくの機会ですので、

 「パウロ書簡」全13巻について、それらに関するダ・ヴィンチの推理および小生の考察なども紹介したいところですが、前回、ご案内の「未来の我々に対して、かくも不可解なる『罠』の数々を提供しているのか?」という点を踏まえての推理や考察を発表しなくてはなりません。

 そこで、次回では「パウロ書簡」や「使徒言行録」(使徒行伝)と並んで、史実性に疑いの残る4つの『福音書』の中でも『マタイの福音書』だけにしか記述されていない「エジプトへの逃避行」についての真実を掘り下げてみたいと考えています。

   
          『エジプトへの逃避行』カルロ・マラッタ

  むむむ!  エジプトへの逃避行はなかったいうことか!?  
       

 
     この男は、 まったく、何も、わかってませんな!
御使いによる夢のお告げで逃げたのよね   
        
     エジプトでの暮らしぶりは書かれておらんようじゃのぅ
! 
        
    そうね、でもイエスが12歳の時の記述があるみたいだわ!
 
それは、『ルカの福音書』の方じゃよ!  
       

         『ルカの福音書』にある神殿での話は出来すぎの予定調和じゃな!

 ええっ、      
         
  老獪な律法学者を相手に一歩も引かないどころか、彼らを唸らせるんだから!      
         
   必死に探したマリアやヨハネの気持ちをないがしろにしとるようじゃ!
         
      そうね、こまっしゃくれた
生意気な子供のように見えるわよね! 

   さもありなん!
            
 ただの「小賢しい」プロパガンダでしょ!        う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

           「核の冬の証拠はない」 gigazine.net
   … to be continued !!

       「聖書は『沈黙』を続ける神の言葉なのか?」 www.jw.org   

      「イエス・キリスト計画」の行方 teatime365.hatenablog.com 
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        『時間との戦いPART-1』 kazuki1026.hatenablog.com

   「夜空の天の川を背景に岩の上に立つ人」(Getty Images) forbesjapan.com

      宇宙に存在するのは、地球人だけなのだろうか(Getty Images)forbesjapan.com 

     コンタクト (Credit- Kendall Hoopes from Pexels)sorae.info 

        「なんだかなぁ!」 gigazine.net & spaceshipearth.jp 
          
         『最後の晩餐』ヨハネ  『岩窟の聖母』マリア     
               
               マグダラのマリア  
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       『時間との戦いPART-2』 kazuki1026.hatenablog.com 
     

     
ダ・ヴィンチの推理は続きますよ。 
 


       「どうなんでしょうね?」 yuri-kurashi.hatenablog.com